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『オクトーバーフール』第4話

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(本記事該当頁は P.24~31)
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(※目安 約4,500字)


 第4話


 ——これは控えめに言って大ピンチなのでは。
 千秋ちあきは自分の置かれている状況を考える。
 脱衣所の扉が開いたのはほんの数秒間だったが、確実に小春こはると目が合った。
 千秋の選択肢は2つ。
 一、何事もなかったかのように扉越しに話す——いや、あの悲鳴はまず間違いなく裸を目にしているだろう。何事もなかったことにはできそうにない。
 二、事情を話してどうにかほかの人には黙っていてもらう——とはいえ、どこからどこまで話す? この状況をなんと説明する?
 そもそも、小春が目にしたであろう姿は男の体で、髪の毛も短髪なうえ、メイクもほとんど取れている状態だ。こんな姿を見たところで、幸い、ここに居るのが「千秋」だとは気付いていない可能性もあるのでは。
 ……いや、そっちのほうが問題だ。だってそうだろう。仕事仲間の女性丶丶に貸したはずの浴室に、見知らぬ男が裸で居て、しかも左手には女性物の下着——どう考えても変質者すぎる。
 いずれにしても困った状況だが、警察沙汰がいちばん洒落にならない。

 ここまでの脳内会議を、右手に持っていたドライヤーを止めて置くまでの一瞬で済ませた千秋は、通報を逃れるべく脱衣所の扉を開けた。

「小春さん。ちょっと。驚かせて悪いんだけど、話させてくれないかな」

 小春はこちらを一瞥いちべつし、目のやり場に困ったように千秋の手の指先のほうへ視線を向けた。
「…………あか」
 小春がボソッと何かつぶやいたようだが、千秋には届かず「え?」と聞き返す。
「……やっぱり千秋さん、なんですね」
 確かめるように言ったあと、小春は「とりあえず服を着てくれませんか」とうつむいたまま千秋に頼み込んだ。
 とにかく口外される前に小春を引き留めなければと急いでいたため、必要最低限の範囲は隠していたものの上半身は露出したままだった。
 女性の姿であれば気にならないが、男性にしては華奢きゃしゃで小柄な身長だと思う。膨らみのない体にシャツを着る。服を着たからといって一度あらわになってしまったものをなかったことにはできないのだけど。
 男だと知られてしまった以上、脱衣所の2畳半の空間で二人きりになるというのはなんだか気が引けて、千秋は小春に廊下で話そうと提案した。

 千秋が服を着てもなお、小春は目を伏せたままだ。いつも真っすぐにこちらを見て接してくれる小春が、まったく目を合わせようとしない。
 それはそうか。昼間あんなふうに嘘が嫌いだと言い放っておきながら、自分はこのとおり大変な事実を隠していたのだ。小春にとっては「今までずっと騙されていた」と思われても仕方がない状況だ。
「嘘が嫌い」というのは本当で、嘘をつきたくないという意思があるから、言えない言葉はすべてみ込んできた。
 これは嘘ではなくて本当のことを言わないだけだ、と自分を正当化して、けれどその「正当化」が正当ではないことを、自分でいちばん認識していた。男の千秋丶丶丶丶であれば差し出されることはなかったであろう、女の千秋丶丶丶丶に対する小春の純真無垢な温かさ。その温かさに触れるたび、まだ気付かれていないという安心と、本当のことを言わずにいる後ろめたさが順に押し寄せた。
 だから今、バレないほうがよかったに決まっているのに、バレてホッとしている自分がいる。
「ずっと隠してて、ごめん、なさい」
「あ……いえっ。えっと……はい……」
 小春は困惑した表情を浮かべている。
 話をさせてほしいと言ったのは自分なのだから、自分から話さなければと千秋は思う。しかし男であることを知られたからといって「ではすべてを話そう」と簡単に切り替えられるものでもない。易々と話せることなのであれば初めからこんな隠し事はしていないのだ。
 それでも、言えない言葉を嘘で塗り固めるようなことはしたくなくて、できるだけ真っすぐに伝わるよう、千秋はありのままの思いを口にした。
「正直、どう話していいか、まだ気持ちの整理が付かなくて」
 すると小春も言葉を慎重に選ぶようにして千秋に尋ねた。
「えっと……こっちが本当の姿……っていうことですよね」
「ん」
 千秋は小さく頷く。
「その……千秋さんはどうしてその、女の人の格好を……? 趣味、みたいな感じなんでしょうか。それとも、その……性自認が女の人……ってこと……」
「…………」
 どう答えようか千秋が迷っていると、小春は少し慌てたように付け加えた。
「あっいや、偏見とかは全然ないんですけど、なんていうか、その。今後も今までの千秋さんのままお仕事しますよね、みんなは知らないわけですし。わたし自身が今後どういうスタンスで接していけばいいかなっていう確認というか……」
「あ、うん、大丈夫。……性自認が女性ってわけでは別にないんだ。ずっと男として生きてきたし。メイクとか美容とかは小さい頃から触れる機会があって、興味はないわけじゃないけど……趣味でこういう格好してるのかというと、そういうわけではないというか…………」
 そこまで言って、言葉に詰まる。
「……何か事情があるんですね。……了解ですっ!」
 小春は右手で敬礼のポーズを取りながら、からっとした調子で答えた。
「えっ……と、あの、何も聞かないの?」
「千秋さんが話しづらいことを無理には聞けないですよ。それに、男だろうが女だろうが、千秋さんは千秋さんですしっ!」
 たしかに現時点で話せることは少ない。何も聞かれずに今までのように「千秋」として接してもらえるのであれば、これほどありがたいことはない。でも、疑念を抱いたり、不信感を募らせたりして当然な状況で、こんなにもすんなりみ込めるものだろうか。
 そんなことを考えていると、小春が思い付いたようにそろりと手を挙げた。
「あっ、じゃあ質問……いいですか」
 何も聞かれなくても不安に思うくせに、いざ質問と言われるとそれはそれで不安に思ってしまうから、我ながら身勝手にも程があると千秋は思う。
「はい、どうぞ」
「……もの、だったんですか」
「え?」
 小春があまりに聞きづらそうにもごもごと話すので、質問の内容が聞き取れない。
「あの、小春さん……ごめん、ちょっと聞き取れない」
「……でぃ、Dカップは! 偽物にせものだったんですか……!」
「えっ。そ、そういう質問?」
「だ、だって、どうやってるんだろうって気になっちゃったんですもん! 勇気出して質問したんですから答えてくださいよう!」
「えっと、うん。そう。詰め物で……」
「まさかの、ニセちち……」
 ——《ニセちち》。
 その言い方はアウトではないだろうか。
「じゃあ、千秋さんの美しいモカベージュ色のセミロングの髪の毛は……!?」
「えーっと、ウィッグです……これ」
 先ほどタオルドライして乾かしておいたフルウィッグを小春の目の前に差し出す。
「まさかの、ヅラ……」
 ——《ヅラ》。
 やはり多少、言い方が気になる。
「わたしの憧れのお胸と髪の毛がどっちも偽物だったなんて……ショックです……」
「ご、ごめんなさい……?」
 もはや何に対して謝っているのかわからない。
「でもお胸は服で隠れているのでともかくとして、髪の毛が偽物だったなんて全然気が付きませんでしたよ」
「これね、本物に見えるように、けっこうお高いやつ買ったんだ」
「良いヅラ……」
 言いかけると小春が急ににやけをこらえきれない様子で笑い出す。
「えっ、なに……」
「……も、だめです、わたし……ふふっ!」
「え、なになに!?」
「千秋さん……ふふふっ!」
「いや怖いよ、まじでなに!」
 すると小春は笑いで声が震えるのを必死に抑えながらドヤ顔で言い放った。
いヅラ買ったの、さぞ言いづらかったんですね……ぶふっ!」
「…………ぶはっ! いや、なにしょーもないこと言ってんの!」
 小春がこらえきれず吹き出すと、千秋も思わずつられて笑った。
 ああ、不思議だ。先ほどまで潰れそうだった胸の中にようやく空気が入っていく感じがする。

「小春ー!? あんた何やってんのー! 宴会予約のお客さんそろそろ到着するわよー!? 千秋ちゃんも準備できてそうなら呼んでー!」
 皐月さつきの声が階段に響く。
「じゃあ、千秋さんは美人のお姉さんにしっかり変身してから下りてきてください。わたし先行ってます。あとこれ、もし使えそうなら」
 小春はコンビニの袋を千秋に渡すと階段を下りていった。
 千秋が袋の中を覗くと、シンプルなボクサーパンツとカップ付キャミソールが入っていた。何から何まで小春に助けられている。小春の変わらない温かさに心底救われる。
 ——よかった。小春さんと気まずくならなくて。
 千秋はそっと胸をなでおろした。



「小春、座敷の宴会、プラ5でジョッキ対応になったわ。生中なまちゅう9、りょくハイ1、ウーロン1」
 予約の宴会がスタートし、スパークリングワインで乾杯が行われたあと、皐月が2杯目のドリンクオーダーを取ってきた。
『きまま』では、店主兼料理長である丸花まるはなの作る料理に力を入れており、「美味しい料理とそれに合うお酒を提供する」というコンセプトのもと営業している。
 そのため一般の居酒屋でよくある「飲み放題プラン」は『きまま』では宴会のコース料理を予約した場合に限り付けることが可能となっている。その際ビールは通常瓶ビールで対応しているが、飲み放題付き宴会コース料金に一人あたり500円の追加で、瓶ビールを生ビールジョッキに変更できる。
 これが皐月の言う『プラ5』つまりプラス500円でジョッキ対応ということだ。基本的には予約時に『プラ5』のサービス利用を提示するお客が多いのだが、今回は来店後にこの利用を決めたようだった。
「生中9!?」
 てっきり瓶ビールの注文が入ってくるだろうと思っていた小春は多少うろたえた。まずは各専用のタンブラーグラスに緑茶ハイとウーロン茶を作り、次にグラス用冷蔵庫から中ジョッキを9つ取り出す。ビールサーバーのレバーを手前に引き、ジョッキにビールを注いでいたところ、途中でシュボーっと力尽きたような音を鳴らしながら白い泡が噴き出した。樽の中のビールが切れたようだ。
「ああっ! こんな時に……!」
 忙しいときの樽交換ほどわずらわしいものはない。小春は空になった樽を所定の場所へ運び、その流れで厨房内のプレハブ冷蔵庫へ向かった。
 新しいビール樽をドリンクカウンターへ運ぶため小春が樽を持ち上げようとした時、後ろから誰かの手が伸びてきた。
「代わるよ」
 振り向くと同時に「いつもの姿」の千秋がビール樽をさらった。
「あっ、大丈夫ですよ……!」
「これ20キロもあるんだよ。……女の子には重いでしょ」
 自分で言っておきながら、千秋は少しばつの悪そうな顔をする。小春がそれ以上何も言えずにいるうちに、千秋は行ってしまった。
 いつものように「千秋さんだってレディーなんですから」とは言えない。いつものやり取りが叶わないことが寂しいのか、今までとはまったく違って感じる空気がもどかしいのか。
 千秋は千秋だと、言ったくせに、今までのようには接せない自分がいる。普通にしていたいのに戸惑ってしまう。今までと同じではいられない。
 偏見はないと言ったくせに、本当は男性だから、と行動の基準を変えてしまう。それってもう偏見なのか。
 こんなこと思いたくないのに、思ってしまう。
 ——千秋さんと話すの、気まずい。
 ドリンクカウンターに泡になったビールを残してきたままだ。
 今は仕事のことだけ考えよう。
 小春はぐっと気合いを入れ直した。





※この物語はフィクションです。登場する人物、団体、名称、事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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