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(約)20年前の広告業界から働き方を思い起こす連載小説 -5- 60歳の左遷。飛び込み営業の毎日

そして、ある2000年代初旬の4月1日。新卒社員としての出社の日を迎えた。

前日は名古屋城の天守閣に登り、名古屋の町並みを一望した記憶がある。その当時は名古屋には高いビルはほとんどなく、10階程度のビルと家々が眼下に広がっていた。

当日は8時半少し前に出社した。

その日は家探しを助けて頂いた総務の加山さんが既に出社していて、支社には約50人ほどの社員がいることなど簡単な説明があり、その後、支社内に3つある部のひとつ、私が所属する第一営業部の井ノ本部長を紹介された。

井ノ本部長は50代半ば、小柄で小太り、白髪の天然パーマに縁もレンズも厚いメガネをかけ、しゃがれた声質は立川談志、いや見た目も立川談志に近いが、安部公房も少し足した方がいいかもしれない。

彼は正確には部次長、いわゆる次長、の肩書だ。会社は終身雇用、年功序列の典型的な日本企業で、驚いたことに無役の社員と同じ数ほどの次長がいた。部の数が少ないため、彼らは部長になることができない。そしてそのまま次長という肩書で定年を迎える人も少なくはない。次長は部長とほぼ同列であり年収も高いはすだ。

私が配属された第一営業部は井ノ本部長を中心に、30代半ばで既婚の杉田さん、30代前半で、私の家探しの時にアドバイスをくれた山田さんと、同じく30代で営業成績が優秀な織田さん、九州出身の20代半ばの船元さんと、最後に私の1年先輩の高見沢さんだ。

私は第一営業部のひとりひとりと挨拶をし、私の営業指南役である山田さんの隣の先に案内される。席次はきれいに支社長席から離れるほど役職が落ちる並びだ。その後、ラジオ体操が9時からあり、それが終わると奥田常務へ初出社の挨拶をした。

私の同期と一緒だ。

同期の荻窪、彼は岐阜出身で、実家はとんかつ屋さんをしている。彼とは親しくなり彼の実家のとんかつを食べに行ったことがある。

店内はよく清掃され、香ばしい油の香り(おそらくごま油を混ぜているのだろう)でいっぱいだ。そこで彼の親父さんが、一枚一枚しっかりと肉の具合を確認しそれを叩き、慣れた手付きで、かつ丁寧に、両手で振りかけるように衣をつけていく。それからその新鮮な油で揚げるといわゆるパン粉を揚げた香りがたち、食欲をそそる。さらに東海地方特有の味噌ソースがたっぷりとかかる。これが少し硬めのご飯に合いたまらなくうまい。味噌汁も手抜きが無くしっかりと鰹節で取られたものだろう。私はとんかつの旨さは油にあると考えている。高級な油でなくてもいい、きれいな油のとんかつが食べたい。

話を奥田常務への挨拶へ戻そう。

彼の好む応接室に通されると、黒の厚みのある革張りのソファに奥田常務が深く腰掛けていて、黒檀のローテーブルをはさみ、私達が緊張しながら向かいのソファに腰をおろす。

10畳ほどの応接室を見渡すと、床には深い赤(昭和特有の鮮やかさが抑えられた赤だ)の絨毯が敷かれている。部屋の片面一杯には子供の身長ほどの本棚があり、社史その他新聞社の年史が収められ、その上に周年記念の盾や地方広告賞のトロフィーがうやうやしく飾られている。さらに部屋には重みのあり背の高い金庫が鎮座していた。

奥田常務は相変わらず威圧的だ。

歳は60歳ほど、180cmほどの大柄の身体に、威厳のある白髪、同色の髭が顎いっぱいに広がる。挨拶のあと機嫌が悪そうに高級百貨店の話をしたことを覚えている。彼は低いが通る声。あまり間を設けず一気に話す。

「俺はその店で気に入ったベルトがあったから買おうと思った。すると値札がないんだ。店員を呼んで『いくらだ』と聞いた。すると『30万円です』って言うんだ。30万円だぞ。信じられるか?そんな高いものになんで金額が書いてないんだって言ったら『当店では金額ではなくお客様の感性で商品を選んで頂いています』とかぬかしやがる。そんなに高い物に値段を書かないのはおかしいと叱ってやった。全くふざけた店だ」

その他にも彼は私達に「営業なら洒落て無くてもいい。ただ清潔感を大切にしろ」ということや「社内ではダラダラするな。無駄話はやめろ。営業は常に外出し稼いでこい。朝10時には社外に営業に出て18時に必ず帰社しろ」という話をした。我々は相槌を打つ程度だ。

常務に関連する話では、他に松本次長のことを思い出す。

私の入社する約一年前、60歳ほどの松本次長が、広告制作局から営業部に転部させられ、引き継ぎ顧客も渡されないまま連日の飛び込み営業による新規開拓をさせられていた。
彼は30年以上グラフィックデザイナーとして活躍していたがMacの覚えが悪いということと、また常務との相性もあり(彼は確実に努力家であったのでおそらくこちらの理由が大きいだろう)60歳から営業に異動となったのだ。

今でも父親ほどの年齢の彼が朝10時に社を出て、夕方まで飛び込み営業をする姿を思い起こすと、何とも言えない気持ちになる。

恐らく常務はそうした人を意図的に作ることにより精神的な威圧と暴力を通じたマネジメントをしていたのだろう。そうした人間は彼ら自身の下らない自己顕示欲や名誉欲を満たすために人々をコントロールする。

松本さんは痩せていて骨ばった体型に洒落た細い縁の銀色の眼鏡をかけていた。コーヒーが好きな彼は、たまにその高く柔らかい声で「君コーヒーを飲みに行こう」と誘ってくれたことを思い出す。

私は今でも毎年片手に満たないほどの年賀状のやりとりがあるが、松本次長からはMacを使って作られたであろう綺麗な年賀状が届く。

つづく

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