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時間の感じかた

先日、このnoteを書いた

単純に散歩すると自分にとって良いことがあるという記事である。その中で、散歩をしようと思い立ってからもうすぐ2年が経つことに驚いた。

学生にとって2年は結構大きい期間だと思う。小学生であれば、学校という集団的に慣れて丁度真ん中の学年になる。中・高生であれば、最終学年に入り、「もう○も終わりか」なんて思う。はたまた、大学生はそろそろ将来を見据える時期にも入ってくる。

けれども、学生で無くなったならば、自分が何をしていたか?は自分で振り返なければならない。学校は決められたカリキュラムがあり、いついつに何があったかは自動的に決まってくる。逆の見方をすれば、学生まではものすごいスピードで色々体験させられる期間とも捉えられる。

学校制度はいつから始まったのかは覚えていないが、少なくとも明治時代には始まっていたように思える(学制?なんて制度があったような)。こんなあやふやなことを書いているが、富国強兵として、世界と戦うための制作の一環だったと覚えている。若いうちから世界に対して戦うために鍛えられたという見方もできる。今は戦争から経済へと戦うフィールドは移動したが、今も国どうしの争いという本質は変わらない。なぜ、社会は教育してくれないのかと考えると、「なぜ働くのか?」、「なぜ学ぶのか?」という疑問などは学生のうちに解消されているもので、後はただひたすらに邁進するというのが建前なのかもしれない。けれども、命の危険がなく毎日を暮らしていると、その意義も失われてくる。私もそうだが。

学校の話に戻ると、学校というカリキュラムを抜けてからの経験が人間の進歩なのではないだろうか。学校では分かりきったこと、おそらく疑問の余地が少ないことを膨大に学んだり、経験することですごく濃密な時間に考えられるが、社会に出てからは分からないことが多く、進歩が少ないからこそ学生時代と比べて「何をやっていたんだろうか?」と感じるのではないだろうか。進歩が少ないというのはルーティンワークの繰り返しでいつも同じことをやっているというのも含まれると思っている。

こういう「自分は何をやっていたんだろうか?」と罪悪感を覚えるような感情は、学生時代の短期間で色々やったという経験と今を比較して、「こんなに時間が経ったのに一体自分が今まで何を…」と思うのではないだろうか。私もそんな1人ではあるが。この議論によく挙げられるメスとしては、「大人になるにつれ、一度は体験したことが増えて新鮮味がないからじゃないですか?」というのがあると思うし、確かにそう思う。こう感じるということは、学校というカリキュラムは良くできたパッケージである。学校を出た後に体験するであろうことを凝縮してくれているのだから。まあ、社会は学校と比べて同じことでも求められるレベルという点では数段高い所にあるのは間違いないと思うが。

「自分は何をやっていたんだろうか?」と思うことが悪いことのかは分からないが、これも社会の仕組みの1つとして、「何かをしなければ自分はいけないんだ」と思わせることで人類の発展を自然と望ませる手段としてはいいのかもしれない。

胡散臭い話になってきた所で止めます。

今日はこんなところで。

では。









P.S.
「こんな下らないことを書いてないで何かしろ!」と考えるのも、胡散臭い話に信憑性を持たせる思い込みの1つでは?と思う。 
この記事で本来書きたかったのは、「もう2年経つから、何かやらないとな~」ということだったのに、思うがままに逸れていきました。



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