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「本はどう読むか」を読んで。
かなり昔の本です。
発売は1972年と、丁度、今から50年前です。先日も日中国交正常化の50周年があったというニュースを見ました。
自分が読んだ本の中でも一番古いのではないか?と思ってます。(あくまで体感)
そんな本を読んだきっかけは、この本が発行されている講談社現代新書の発行部数ランキングの栞を見たからです。
本の読み方に関しては、ある程度自分の中で固まったものがありますが、「たくさん発行されたいるし、読んでみよう」と、なんともミーハーな理由で読もうと思いました。
感想としては、僭越ながら、「うん、うん、わかる」と思ってしまう部分が多かったです。
>人間は覚えられない
特にそう感じたのは、読書の仕方に関してです。
読書には色々な意味があると思います。
読んでいて、ドキドキしたい、辛いこと・時間を忘れたい、読んだことを活かしたいなどなど。
特に、読んだことを活かしたいと思った時に、「あれ、なんだったっけ?」となってしまう。
つまり、読んだことを覚えていないことが多々あります。
まさに私のこのnoteも、読んだ後に自分の言葉で「どんな本だったけ?」ということを書くことによって本の内容を覚えておくことを目的にしています。
そう、読んだことを人間は覚えてられないのです。
以前に読んだ『メモの魔力』では、脳は信用できないので、脳とは別のメモという形で記録を残すということが書いてあった気がします。
(この『メモの魔力』の話も私が「確かそうだったよね?」というものであって、確かではないのです。今は引用元であろうものも覚えています(?)が、いずれは引用元も考えも全て抜け落ちていくのです。)
ちょっとそれましたが、本題に戻ると、どうやれば忘れないのか?ということです。
まあ、誰しも通った道なのかな~と感じるのは紙に書くことで、これも書いてありました。
「うん、うん、わかります」と。
そして、結局は紙に書くことに夢中になって、全く内容を覚えていないとか、本が進まないとか、書くことに疲れてくる(最初のうちは意気揚々だったのに)、そもそも「書く意味はあるのだろうか?」と。
「全く同じたぁ~泣」。
先人もというか、「もしかしてできないのは、私だけ??」と思って口にしないだけなのか
こんな考えすらも同じで、「わかります。。。」
という感嘆な一言しか出てきませんでした。
その後も著者はルーズリーフを使ったり、単語カードを使ったりしますが、結局はノートに戻ります。
こんな試行錯誤も似ているなと感じます。
今は、紙に書くよりも疲れなく、何回も書き直しができるスマホやパソコンがありますが、この本が出版された時代はひとりひとりにパソコンが与えられるイメージはありません。
(ウィンドウズ95が1995年なので、それより古い個人向けパソコンがあれば分かりません。この時代のパソコンの勝手なイメージとしては、今のスパコンくらいの大きさのものか、やっと研究施設などで導入されはじめたものだと思ってます。)
何かにメモをするという点でいうと、今の時代さまさまです。
>本を読む意味
本を読むと言っても色々な本があります。
この本では、大きく本のくくりを3つに分けました。(もちろん分けられない本があることも承知で。)
実用書、教養書、娯楽書の3つです。
実用書は「生活が強制する本」、娯楽書は「生活から連れ出す本」であるとすれば、教養書は「生活を高める本」である。実用書は、有無を言わせぬ必要に迫られて読む本であるとすれば、娯楽書は、内部の欲求と外部の誘惑とによって読む本であるが、教養書には、そういう必要、強制、欲求、誘惑が欠けている。読まなくてもよい本である。
この内訳で驚いたのは、その意味付けです。
教養書は別に読まなくてもいいと。では、なぜ人は読まなくてもいいものを読むのか?と。
そこには、生活を高めたいという意識があるのではないかと。
自分でも本を読む意味ってなんだろう?と考えたり、こんなタイトルの本を読み漁ったりしています。
今の私が思うのは、ありきたりですが、自分が知っている世界を広げたい。
ということだと思います。「読書は他人との対話」というのもよく見ます。書き言葉で書かれている本や対談本なんかは話を聞いている感じがします。(個人的には、会話でも聞き手側にまわることが多いので、聞くのがメインでも会話と言ってしまいます。)
しかし、この本ではそんなちっぽけというか、小さい話でなく、もっと大きく単純に「生活を高める」と書いていて驚きました。
また、この本では、モンテニューの本の言葉を引用してこんなことが書いてあります。
自分が本を読むのは、立派に死に、立派に生きることを教えてくれるような知識を得たいからだ
ここでもそうですが、生きる、死ぬまでは考えていなかったですが、何か役立てたいとか、知識を広げて何かするということをさらに抽象的にとらえると立派に生きることであり、死に様も自分で決めることにつながると感じました。
さらに、私たちはいずれは死ぬことはなんら不思議に感じません。ただ生涯を過ごすのであれば、教養書はいりませんと言います。
しかし、
未完成の形で与えられた生命を自分の手で完成しようとする。与えられた生命を自分の理想に向かって作り直し、立派に作り上げようとする。教養書は、この人たちのためにあるものである。
またまたおこがましいけれども、私も何かを目指そうと思っているから色々な本を読み漁っているのかなと感じました。
さらに、こういった完成形を目指すためには、
私たちは、否応なく、この社会生活に巻き込まれているのであるから、自分の生命を少しでも完成へ近づけるのには、まず、その中に自分を据えてかからねばならない。
薄々感じていたというか、目を逸らしていただけなのだが、実用書や教養書を読んでも結局は行動しないと変わらないということであって、「今日からやれる」とか、「いますぐやろう!」ということを丁寧に書いてくれている本がありながらもあまり行動できていない自分もいる。
前にも何かの記事で書いたような気がするが、ある意味、こういった本をたくさん読んで、自分にできる!と洗脳させているという意味もあると思う。
何も変わってはいないかもしれないが、「やろう!」という意識を持つことが大切で、やれば自信も付くという後付けでもいいのではないかと。
実際に自信をつけるためには行動することと書いている本もあるので、何もアイデアが思い付かなければ鵜呑みにするのもありだとは思う。
>仕事での読書
著者は仕事で、「○○について○○文字以内で書いてください!」とお願いされることがある。
もちろん、専門外のことを頼まれることも多々ある。
そんな時に著書は、「○○字以内ならこれくらいでいいや」というような思考ではなく、その仕事の専門家になるくらい徹底的に深く物事を調べるそうだ。
これは、「何かしたいけれども、何をしたらいいでしょうか?」、「専門書は読んでいるんですが、他にしたくても…」という質問を受けた時のアドバイスの回答として書かれている。
著者の回答に自分も共通点があると感じた。それはテスト勉強だ。周りの友達と一緒に勉強していると、「え、そんな問題まで問いているの?。そんなとこまで出る?」と言われることがある。私にとっては、テストで点数を取れることに自信がなく出きるところまでやろう!という精神でやっていたり、ただただ慎重なだけだと思っていたが、こんなプラスの見方ができると思った。
それでテストで点数が取れたか?と言われると、さっきの質問をしてきた友達の方が点数を取っているということもあるし、何かを深く理解できたか?と問われれば、自信はないが、小さい簡単な仕事であっても、「専門家になってやるぞ!」という意気込みはプラスに思えるようになったと感じた。
深く学ぼうとすれば、何か別のやりたいことが見えて来るだろうし、きっとプラスになると思う。
実際に、私も本を読んでは、その中で引用されている本を読むというような循環で色々な本を読みたいと思うようになった。
>読書感想について
唐突だけれども、久しぶりにこんなに読書感想を書いている。既に3000字を越えている。自分の中で結構刺さった本なんだな~と感じている。思うことがなければこんなには書けないと思う。
こんな文章も読書感想だと思う。
(我ながら上手い導入だと思っている。つまらなかったすいません。)
長々書いてきたが、この小段落で終わりです。
この読書感想の小段落は、最初の小段落『>人間は覚えられない』の続きと思ってもらいたい。
先程も引用したモンテニューは、記憶力に自信が全くないそうで、本を読み終わった後に、700字程度の読書感想を日付と一緒に本の最後のページに書いているそうだ。
著者も読書感想に関してこんなことを言っている。
「有益な本だった。」と書いても、それは感想に違いない。~(略)~ どんな立派な本でも、すべての頁が有益ということはない。どの点が有益だったのか、どういう意味で有益だったのか…..少なくとも、この辺までは踏み込まねば、感想らしい感想とは言えないであろう。
確かに「面白かった」の一言では、自分の頭の中では、この描写とか、こういう感情というのは分かる。けれども、話す時に言葉に詰まってしまう。私がnoteを始めた目的も感情の言語化であって、上手く言葉には出来ないかもしれないが、なんとかひねり出す作業をしている。
さらに、読書感想を書くことに対して、
感想を書いた文章が一篇の文章としての連続性を保つことが出来ない。連続性のない文章は読む人間に理解されない。~(略)~ 読む場合は、私たちは理解するという立場に立っていたが、書く場合は、他人に理解させるという立場に立っている。誰かが作った道を見失うまいという努力でなく、自分で道を作り、他人にこの道を歩かせる努力である。
また、
本を読みながら、「なるほど、なるほど」と理解しても、そういう理解は、心の表面に成り立つ理解である。浅い理解である。本を読んで学んだことを、下手でもよい、自分の文章で表現した時、心の底に理解が生れる。深い理解である。深い理解は、本から学んだものを吐き出すことではなく、それに、読書以前の、読書以外の自分の経験、その書物に対する自分の反応……そういう主体的なものが溶け込むところに生れる。それが溶け込むことによって、その本は、二度と消えないように、自分の心に刻み込まれる。自分というものの一部になる。受容ではなく、表現が、真実の理解への道である。
これらのことは読書感想を書くようになってからすごく感じるようになった。
読書感想を書きながら、「何か良かったんだけど、内容を覚えていない」ということから、「理解が浅かった」ことを感じ、内容を覚えていたとしても、文章にする時に覚えていることどうしが繋がらなくて、文章としての連続性を感じられないと感じる。
上に引用した2つのことはこちらが立てば、あちらが立たずの関係だなと自分が読書感想を書いていて思う。
そういう意味では、「理解できた!」と思っていも、それもぬか喜びで、本当の意味では理解できていないと思う。
これら2つをクリアして本当に理解したということだと思った。
そういう意味では、「物事を理解する」ということに対しての自分の解像度が一段上がったと思う。
自分の中の1段目は、相手に話をして理解してもらうことです。この1段目は1つの話が理解できないとしても、別の例を出して説明すれば納得してもらえる可能性があるかもしれないからだ。つまり、時間をかけて色々と話しているうちに「あ、そういうこと!?」って理解してもらえるかもしれない。
この本で得たのは、自分の中の「理解する」ということの2段目です。つまり、書いたことがスルスルっと理解されることです。話とは違い、文章はそこに書いていることが全てです。つまり、物事を理解する手段としては目の前の文章しかありません。そのため、話すことよりは情報量が少なく、自分の中で色々試行錯誤するしかありません。情報量が少ない中で相手に理解してもらわなければならないので、話すことよりも1段レベルの高い2段目になるなと思いました。
・最後に
自分もその道を通った!という共通点があるからなのか、『読書感想について』で書いた、文章の連続性に魅せられたのかは分かりませんが自分の中で記憶に残る1冊になりました。
この本は図書館で借りた本ですが、買います!笑
気になった方はぜひ読んでみて下さい!
では。
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