マガジンのカバー画像

飯田弁に見る飯田人の流儀

19
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

飯田弁に見る飯田人の流儀

はじめに

 令和元年(2019)9月8日より、南信州新聞に「飯田弁に見る飯田人の流儀」と題して、飯田地方の方言に関する私見を連載中です。それらのうちの一部を、転載してみます。ご意見・ご感想・ご教示などいただければ嬉しく思います。

   

下から上を見上げれば(2)

 八十歳になった年齢で単身フランスへ渡って、日本とフランスの文化の架け橋となることに余生を捧げようとして、かの地で日本語を教えていた魔女氏にとって、私は年齢的に息子サンとおっつかっつだったのでありましょうかなぁ。

 東京の銀座通りを並んで、話しながら歩いていたときのことでございました。私が車道側に立って歩いていると、いつの間にか魔女氏が車道側に来るのです。そこで私がまた位置を入れ替えて少し歩いて

もっとみる

せせらぎの如くに聞こえるなかで

 雪景色が懐かしくなって来ている。私が子どものころには、十一月のうちにだってしばしば雪が舞ったものである。そうして、飯田の旧市内にあってさえも、日蔭の場所には春先まで根雪となって残っているような光景は、けっして珍しくなかったというのに……。近年は、冬が消えてゆくかのような気配である。二〇二〇(令和二)年にあっては、冬場にほとんど雪景色を見ることが無くて終わった。そんなだったから、次のような会話を耳

もっとみる

「いれいち」にみる位置のことば

 大相撲の歴史のなかで、最強の力士と言われているのが、信濃の小県郡の生んだ雷電為右衛門である。二三歳で初土俵を踏み、その場所で、いきなり優勝した。四四歳で引退するまでのあいだに、254勝もして、わずかに10敗しかしていない。その敗戦にあっても、相手に不足の下位力士との取り組みに嫌気がさして、前夜に大酒を飲み、二日酔いのままに土俵に上がったからだなどといわれている。勝率九割六分二厘、年に二場所とある

もっとみる

まずは周りを見回してごらん

 「他家の庭は良く見える」とか「隣の芝は青い」などといった言いがあるけれど、自分たち自身のいるところにあるモノの価値に関わって、見え過ぎるがゆえに却って解らない――ということは、人にとっての性というものなのだろう。
 「飯田には見るべきところも、これといった料理も、何も無い」などと自嘲して言う飯田人も少なからずいる。けれども、それは大きなマチガイだと私は思っている。料理の方はいまは措くとして、南信

もっとみる

「まえで」と「おくで」だけ?

 方言というものに対する感覚というものには、おもしろいものがある。それぞれの地にそれなりの方言があるのだけれど、その地の住人たちのだれしもが「コレコレということばは、まちがいなく方言である」と確信を持って使っている語句もあれば、また一方に「これは共通語そのものだ」と認識して使っている語句もあって、そのあいだに共通語色と地域色との濃淡をまといながら、おびただしいことばが層をなしているといった様相にあ

もっとみる

飯田人が慌てるとき

 飯田の町はというならば、赤石山脈(南アルプス)と木曾山脈(中央アルプス)とに挟まれた山国の谷あいの盆地にある。それだからして、刺激が少ないというならば、刺激は少ない。テレビがありインターネットが普及した時代にあっても、ほとんど変わらない。そのうちにリニア新幹線が通るようになったらば、それなりに変わっていくのだろうかしらん――とも思ってみるのだけれど、私には先々を見届けることはできないし、されば慮

もっとみる

いのちながければはじ多し(2)

 一九七二(昭和四七)年のことであったから、ざっと半世紀もまえのことになる。この年にデビューした森昌子に加えて、翌年には〈花の中三トリオ〉と呼ばれることになった山口百恵・桜田淳子のアイドル歌手が、華々しく登場して来た時期であった。初初しい彼女たちがもてはやされて活躍を続けていく一方にあって、来たりつつある時代を描いたところの、深くて重くオソロシイ問題を世間に提起した小説が出版されて、たちまちに話題

もっとみる

いのちながければはじ多し(1)

 中国の昔のオハナシである。聖人君王として高名だった堯が、華の国へ巡行したときのこと、土地の関守の役人が堯の前に出て来てうやうやしく挨拶した。
 「聖人さま、謹んでお祝いし、お祈りいたします。まずはあなたさまのご寿命のいつまでも久しくあらんことを」
 「いやいや、私は寿命の長きことなどは望まぬ」
 「えッ、さようでございますか? ……、それならば富の豊かにあられますようにお祈り申し上げます」
 「

もっとみる

「じょぼくさり」のなさけなさ

 飯田弁の数多ある語彙のなかにあって、私には殊更に好きなことばだとか、気に入った句表現などというものが、少なからずある。
 それらはというならば、あるいは意味するところに惹かれるものであったり、あるいは響きから来る語感のおもしろさであったり、あるいは文法的な概念を超えているのではなかろうかと思われる新鮮な語彙であったり、あるいは平安朝のむかしに繋がる高貴さを感じさせるような語であったり――と、さま

もっとみる

「うてとる」ものなら……

 いかに人形劇の町だとか焼肉屋の多い町だのを標榜してはいても、国内の多くの人たちにあっては、飯田という都市があるということさえも知らないのではないだろうか……と、私は推量してみている。いずれリニア新幹線が通るようになれば、知名度がぐんと上がることだろうけれども、少なくとも目下は、知っている人よりも知らない人の方が多いだろう。そうしたことは、出かけた先々での他国の人たちとやりとりをするにつけて、感じ

もっとみる

いたずら者が? いたずら者に?

 小学校での、授業中のことである。先生が教科書を読み進むのを、生徒たちがそれぞれに目で追っていた時のことだった。教室の後ろの方から「火事だ!」という声があがった。驚いて、先生も生徒も、みな一斉に窓の外を見やった。
 ん? ……、どこにも火の手はおろか、煙すらも立っていない。先生が窓辺へ行くと、同じように席を立って行って、身を乗り出して外をきょろきょろ見回す者も何人かいた。しかし、どこにも火事と思し

もっとみる

中馬街道だったから?(1)

   
 かつて中学生や高校生だったころの私は、年配の人たちの話している内容に、しばしば顰蹙したことがあった。それとともに口にしていることばのありようにも嫌悪することが少なくなかった。学校での国語の時間はもとより、教科書に書かれてある表現とははるかに隔たっていていかにも古臭くまた田舎臭く感じられるようなことばが、年配の飯田人からは紡ぎ出されていたからだった。
 しかし、いざ自分が老境に達してみると

もっとみる

中馬街道だったから?(2)

 私が未だ幼稚園児だったころには、飯田の町なかを、馬に大きな荷車を曳かせて物品を運送しているような人たちが、まだいたものだった。母や祖母の「ばくろうサが来たに」などと言って教えてくれる声を聞いて、荷馬車を見に行ったりしたものだった。それでも残余の趣が強くて、そうそうむやみに見られる光景ではなかったけれど。
 その後には、鉄道での輸送が隆盛をみた。飯田線にあっても、貨物列車の長々と連結した姿を見送っ

もっとみる