まずは周りを見回してごらん
「他家の庭は良く見える」とか「隣の芝は青い」などといった言いがあるけれど、自分たち自身のいるところにあるモノの価値に関わって、見え過ぎるがゆえに却って解らない――ということは、人にとっての性というものなのだろう。
「飯田には見るべきところも、これといった料理も、何も無い」などと自嘲して言う飯田人も少なからずいる。けれども、それは大きなマチガイだと私は思っている。料理の方はいまは措くとして、南信濃には見るべきもの、否、見せるべきもの、誇るべきところが周りにドッカーンとあるではないか。
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ぐうら〔gu’ura〕【名詞】《高低低》
「観光客を呼び込みたいっちゅってみたってだに、飯田なんちゅうとこは、これといって、何にも無いとこだでなぁ」
「そんなこたぁないもの。ぐうらを見てごらんな。四方に雄大な山脈があるに」
「山脈があるっちゅうだけじゃぁ、自慢にならんもの」
「何を言っとるんな。朝な夕なに雲の生まれちゃぁ来るような山なみの景色なんて、都会の衆はいっくら銭を積んだって見れんのだに。東京にでも行って、向こうの衆にそんな話をしてごらんな。みんなけなるい顔をするに」
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「ぐうら」とは、「まわり」「周囲」「外周」といった意味合いをあらわして用いられてきている飯田弁である。
「ぐるぐる巻き」だとか「ぐるりと取り囲む」だとかいった表現は、共通語にあってもふつうに使われている。そうして、その名詞形として「まわり」「周囲」といった意をあらわすとなったら、共通語でならば「ぐるり」というところだろう。それさえも、今日ではいささかならず古風に感じられるのではないか……とも思われるのだが。
しかるに、南信濃では〔ri〕ではなくて〔ra〕に転訛して使われてきている。そうしてそれがまたさらには〔ra〕の音が不安定でもあることから、長音化したところの「ぐうら」〔gu^ra〕と表現されることの方がたいていである。
それやこれやで、「ぐうら」にせよ「ぐるら」にせよ、こうした言いはいかにも飯田弁らしさを湛えた表現のように、私には感じられるのである。
なにも都会の人たちだけに限るものではない。私の親戚や学生時代の友人をはじめとして、伊那谷を訪れた他郷の知人たちの多くが、この地を取り巻く雄大な山脈には感嘆の声を上げる。多くの人たちにあっての〈やま〉の概念は、山という漢字そのものの如くにあるように見受けられて来ている。いわば風越山のように単独で盛り上がっているようなそれらをして〈やま〉と認識しているのだろう。さればこそ、赤石山脈などを眺めると、そうしてそこに霧が立ち昇り雲が生まれ行くのを見たりなどすると、感動さえ覚えるようだ。
こうした雄大な山脈を見て感動を覚えないような人には、どんな料理を用意してみたところでおいしいとも思わないだろうし、何があっても満足しないだろう――と、私はひそかに思っているのである。
「ぐうら」ということばを取り上げたなら、類語として取り上げるべきことばがある。「があた」という語である。
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があた〔ga^ta〕【名詞】《高高高》
「ちょっと、何な、そりゃ」
「何って、こりゃあ、額のがあたよ。探古堂のおじいまがくれるちゅったもんで、もらってきたんな」
「そんなえがんだ額のがあただけをもらって来たって……。何でももらっちゃぁ来ちまって、それを何に使うんな」
「いざっちゅうときに、があたが無きゃあ、困るちゅうもんずらよ」
「いざっちゅうときって、どんな時な」
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「外枠」「外郭」をさして言ったことばである。平面的(二次元)な場合に限らない。三次元的な筐体の外枠などにも用いて言う。
「があただけ建っといてくれりゃあ、そいでいいもの。なかは、ちっとずつ、うちでやるで」
などのように。
漢字で表記するならば「型」と表したことばが、濁音化したりして、それなりに転訛して定着したものなのであろうか。
「全国方言辞典」には「がーた」の語形で立項してあって、①周囲の意で神奈川県津久井郡の地名が、②外郭の意で長野県の諏訪の地名が、③外側の意で対馬南部の地名が、それぞれに挙げられてある。それぞれの意味合いは微妙に異なってもいるのだが、南信濃の用法はというならばいずれにも通っているように思われる。さりながら「ぐうら」にあって認められるような〈取り巻く〉の意味合いは、この「があた」にはないようだ。
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