「じょぼくさり」のなさけなさ
飯田弁の数多ある語彙のなかにあって、私には殊更に好きなことばだとか、気に入った句表現などというものが、少なからずある。
それらはというならば、あるいは意味するところに惹かれるものであったり、あるいは響きから来る語感のおもしろさであったり、あるいは文法的な概念を超えているのではなかろうかと思われる新鮮な語彙であったり、あるいは平安朝のむかしに繋がる高貴さを感じさせるような語であったり――と、さまざまなケースがある。
そうして、そうであってみれば、気の赴くところ、そのような語彙や表現を使える場がありさえすれば、喜んで使ってみたいものだとも思っているのである。だが、気には入っていながらも、残念なことに使えるような場にはなかなか遭遇し得ないことばの方が多いのである。
「じょぼくさり」というこのことばも、そうした私のお気に入りの一つでありながら、久しく使える場に遭遇して来ていない。それでも、意味するところと、語の響きとが、ユーモラスに溶け合って感じられて、口に出して言ってみるだけで、ついつい微笑んでしまうのである。もっとも、現実にそうした状況のもとにあったりするような場では、微笑んでなどいられまいが。
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じょぼくさり〔jobokusari〕〔―腐り〕【名詞】《低高高低低》
「ううわわうわ……、さ、さぶぶぶうう」
「はれまあ、じょぼくさりになって……。傘を持ってっとらなんだのかな」
「置き傘が無かったもんで……、さぶ~い」
「そんな恰好になって帰って来ちまって。そんなとこで震えとらんで、そこで脱いでいいで、ちゃっとシャワーを浴びといな」
「こんなとこで脱ぐっちゅうのかな、イヤだヮ」
「『イヤだヮ』ったって、そんなじょぼくさりのまんまで家のなかへ上がられたら、そこらじゅうがビタビタになっちまうじゃないかな。こっちがイヤだもの。……、ほれッ、早くせんと風邪を引くに」
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「じょぼくさり」というのは、共通語でいうところの「ずぶ濡れ」「びしょ濡れ」になったさまをいう飯田弁である。いかにもおもしろい語感の個性的なことばだと思う。
「全国方言辞典」には、この語が掲出されてあるのだけれども、使用地域としては長野県下伊那郡とあるだけである。あるいはまた「長野県方言辞典」を開いてみると、やはり当地のほかには使用地域は挙げられていない。わずかに並んで「じょぼくされ」の語形が掲げられてあって、使用地域として上伊那郡が記されてあるだけなのである。つまるところ、このことばは最も方言純度の高い南信濃ならではの語のひとつだ――と言ってもよかろうと思われる。
古語にまで思いを拡げてみていくと、「そぼぬれる」「そぼたれる」という語がある。そうしてそれらは、さらになま訛った「しょぼぬれる」「しょぼたれる」という形でも使われて来ていたことが、文献でも認められている。
飯田弁の「じょぼくさり」は、おそらくはそうしたところからの転成語だろうかとも思ってみるのだけれど、たしかなことはわからない。
なおも古い時代のことをいうならば、小雨がしとしと降るさまや、あるいはそうした雨にしっとりと濡れたさまを修飾する「しょぼしょぼ」という副詞があった。古典にはそうした用例がある。さりながら今日では、このことばは、たとえば「目がしょぼしょぼする」などのように使われることはあっても、「しょぼしょぼ雨が降る」というのはもはや一般的ではないように思われる。
ともかくも、この「しょぼしょぼ」の語意を強調して、子音を強化して発声すれば「じょぼじょぼ」になる。さすればこの方が、いかにも「しっかりと濡れた」感じがするし、あまつさえ水滴がつぎつぎとしたた滴り落ちる気配までが濃厚になるというものではあろう。そのうえに、いかにも「濡れてくたくたになった」ことをあらわす「腐り」という語を融合させて「じょぼくさり」と表現したのだろうか。そうだとしたら、造語した人は誰か知らないけれど、よくできた作品になっているというものだろう。ともあれ、飯田弁の「じょぼくさり」の来歴の真相は、はたしてどのようなものなのだろうか。
自分が「じょぼくさり」になるのはイヤだけれど、どこかで誰かがそうなっていたら、その場に駆けつけてでも使ってみたいことばでありますなんし。
2019・11・03 掲載
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