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民主主義が死ぬーじゃあファシズムが本当に民主主義を破壊する時を見て見ようじゃないかー

皆様、「民主主義が死んだ」と目にしたことはありますか。
まぁ、日本のインターネットだと良く死にますね。
では、実際に死ぬときはどんな時でしょうか。
実は、暴れまわると死にます。

どうもミリタリーサークル
徒華新書 あだばなしんしょ』です。
本日は久保智樹がお送りします。

さて、この前選挙がありましたね。
で、選挙があるたびに、ネット上で民主主義は死にます。
では、本当に民主主義が死ぬのはどういった時でしょうか。

今日はムッソリーニの話です。


ファシズムの生みの親。民主主義の殺害者。

彼は武力革命家から、合法的な政治家に転身し、独裁者になりました。

この男はどうやって権力を手に入れ、民主主義を殺したのか。
本日はそんなお話です。

本日のお品書きです。


骨抜きにされた勝利

イタリア王国。
中世にバラバラだったイタリア半島は、1871年に統一された。
古代ローマから続くヨーロッパ民主主義の生地。

この国からファシズムという民主主義を破壊する思想が誕生した。

なぜイタリアの民主主義は死んだのか。

それを知るためには第一次世界大戦後のイタリアを知る必要があります。

第一次世界大戦のイタリアは協商国として参戦しました。
協商国としてこの戦争に勝利しましたが、参戦時に約束された「未回収のイタリア」と呼ばれる地域は割譲されませんでした。
死者65万人、負傷者100万人、民間人死者60万人もの犠牲を出したにも関わらず、成果を得られなかったのです。
ある人は言った「骨抜きにされた勝利」だと。

イタリア国民の多くはそんな戦争の結果に不満を持ちました。戦後に訪れた不況も人々の不満をさらに高めました。結果的に戦争を指導した既存の政治家に対する不信感は爆発し、左翼の社会主義者に対する支持につながります。

「赤い二年間」と呼ばれる時代が訪れました。
町では連日ストライキが起き、市内には仕事を求める人で溢れかえる。

そんなイタリアの窮状を憂いた男が一人。
第一次世界大戦を戦った男、ベニート・ムッソリーニ。

戦士、ムッソリーニ

ベニート・ムッソリーニは奇妙な男です。
教師、記者、社会主義者、兵隊と職を転々としました。
社会主義者として戦争に反対した時期もありましたが、名誉を夢見て徴兵に応じます。そして戦争の現実を見て、戦地から帰還した彼はある決断をしました。

戦争から戻ってきた兵士、「塹壕貴族」、の名誉を守る。

1919年3月「戦士のファッシ(FIC)」を結成しました。
ファッシ、意味は「束」。いわば「兵隊の集まり」という団体です。
このファッショ、複数形で「ファッシ」。それこそが後に欧州を席巻し、そして現代の社会にまで影響を与える思想、ファシズムとなります。

ファシズムとは何か。
ムッソリーニの「戦士のファッシ」が成したことがファシズム。
彼らにあるのは理論でなく「行動」です。

戦士のファッシは実際には何をしたのか。

社会主義者、赤に対抗する。
彼らは黒い服に身を包みます。
黒シャツ隊を結成しました。
そして行動する。

黒シャツ隊



要は「暴力」を振るった

1919年4月、ミラノで警官に社会党職員が射殺されると、政府に対して怒りを燃やした社会党員は、ゼネスト(全面的なストライキ)を実施して抗議しました。これを見たFICは、ストを襲撃して解散させ、ついでとばかりにストを扇動した社会党の機関紙の事務所も襲撃して破壊しました。

これを政府と警察は黙認しました。ロシアで社会主義者に王政を転覆され、ソ連が建国された直後のことだったので、保守的な政府関係者は社会党に対する攻撃者をありがたがりました。

これより先イタリアは、社会党のストとFICの暴力により混迷を極めます。
1919年から20年が「赤い二年間」であったのなら、1920年後半から22年は「黒い二年間」となります。

黒い二年間

実は社会党を襲撃する中で、1919年11月に社会党の機関紙を襲撃して放火したためにムッソリーニは逮捕されました。これで一気に人気を失います。

しかし不屈の男ムッソリーニは立ち直ります。
1920年5月、第2回ファシスト全国大会を開きます。
ここで愛国的な方向を打ち出しました。実はそれまでFICは実は左翼的で、兵士のために土地を寄越せなどと言っていました。
この愛国的な右翼への転換は、社会主義に嫌気がさしていた多くの人をひきつけました。

話は変わって、ムッソリーニのファッシ運動とは全く別に、農村でも、都市部の訳の分からん信仰心の無い連中、要は左翼、が幅を利かせている状況に嫌気がさした農民が自発的にファッシを編成していました。

この農民運動とFICは一緒になって各地に襲撃に出かけます。
1920年「懲罰遠征」の始まりである。
やることは単純。社会主義者がいれば殲滅する。
文字通りである。殴る蹴るでは止まらない。
拳銃で撃ってみる、爆破してみる。
放火、殺害は当たり前。

もうやりたい放題である。

しかしこれが社会主義者に嫌気を指していた人々をひきつけます。
流石にまずいと思ったイタリア政府はムッソリーニに政治家になることを打診します。彼らはそれで暴力が収まることを期待しました。

ムッソリーニは選挙に出るが、しかし、ファッシたちは社会主義者をぼこぼこにするのをやめない。このときの選挙は100人以上が殺されました。

この間人々は全員がファッシを喜んだわけではないです。
ファッシに対抗するため「人民突撃隊」を編成し、暴力には暴力で答えたイタリア人もいました。

また、どうであれ暴力を嫌う人々も当然いました。

ムッソリーニは一時暴力を停止することも考えましたが、末端のファッシたちは猛反発し、「行動」こそがファッシであると暴れまわりました。

ムッソリーニはファッシに一定の統制を与えなければ、野放図な暴力だけがはびこる社会になると思ってもいました。それゆえに、FICを発展解消した「国民ファシスト党」を1921年11月に結成します。

この1920年のファッシの活躍を見て、2万人だった党は1922年には25万人にまで拡大しました。

さて、これでもまだ民主主義は死んでいません。
まだ選挙で国の代表は選べます。
ムッソリーニらは30議席程度の泡沫政党に過ぎません。

ローマ進軍

ファシスト党を作って暴力を統制する。
結論から言えばうまくいきません。
ファッショに、筋肉でなく脳を使えと、ムッソリーニが言い聞かせても、彼らは暴れるだけ暴れます。

懲罰遠征はむしろ過激になるばかりでした。
今までは懲罰して暴れれば帰っていきましたが、彼らは次第に社会主義者の知事や市長の支配する町を暴力で破壊したあと、居座り占領していきました。

1922年夏が緊張の頂点でした。
各地の占領の結果、政府は首相の辞任で内閣崩壊。
社会主義者はファシスト党の逮捕を求め7月31日ゼネストを決行。
ファシスト党はゼネストの解散を武力で要求。ゼネストは解散するもファッシたちはミラノに集結し、社会主義者を襲撃して放火して報復。
政府はたまらず8月に戒厳令を発令。

1922年の夏の勝者はファシスト党でした。
ファシストに殴られたくない労働者は、ファシスト党傘下の労働組合に逃げ込み、社会主義者は力を失い、ファシスト党は党勢を拡大しました。

政府はもはやムッソリーニを抑え込めないと彼に政府参加を要請します。
ムッソリーニは首相の座を要求すると同時に、この弱腰の政府にゆすりを掛けるという博打に出ます。

様々な水面下の交渉があったがどれも纏まらない。
1922年10月27日、ファシスト党は全国各地の党員を動員します。
ファシスト党はその四天王を中心に数千人が各地を占領しながら、首都のローマに進軍をしました。

ローマに入城するムッソリーニ

ここでイタリアの運命を分けることが起きます。
当時のファクタ首相は戒厳令を敷いて対抗しようとしましたが、まさかの国王がここで戒厳令の署名を拒否。国王はムッソリーニに組閣を命令しました。ムッソリーニはローマに乗り込み、国王より組閣の大命を受けました。

ローマ進軍はファシスト党の勝利でした。

しかし国王は組閣の命令を出しただけで独裁を認めたわけではありません。
民主主義の枠組みのボスにムッソリーニをつけて、彼らを抑え込む。イタリア国王はそんなことを考えていました。

総理大臣から独裁者(ドゥーチェ)に

ムッソリーニは組閣を命じられるがファシスト党はムッソリーニが3大臣の兼任をしたが6ポスト3人で、13人はそれ以外からなる超党派の寄り合い所帯の内閣でした。

そして経済の再建に取り組んだ。この時期のムッソリーニは、赤字財政を黒字化させるなど政治家としての確かな手腕を示した。またこの時、社会党を抑え込むために選挙法の改正にも手を付けたました。

1924年の選挙でファシスト党は大躍進し、ファシスト系の議員が議会の535議席のうち374議席を占めて単独過半数の状態でした。

勿論この選挙でもファシたちは他の候補者を暴力で威嚇していました。
5月31日に社会党のマッテオッティ第一書記はこの選挙の不正を糾弾するとムッソリーニは激怒しました。

そいて6月10日マッテオッティが突然姿を消しました。
彼は拉致され殺害されたのです。
末端のファッシがムッソリーニの怒りに忖度したとも言われます。

政治は荒れに荒れました。
当然、イタリア人はムッソリーニの関与を疑いました。
閣内の一部閣僚が辞表を提出し、野党は結束して国会をボイコットして抵抗を試みます。

ここでムッソリーニは危機的な状況になりました。
良識あるイタリア人からは、国の「正常化」を求める圧力が日に日に増してきました。こんな野蛮なことは許さないと。
一方でファシスト党の過激派からは、ムッソリーニの対応は生温く、「革命の第二波」、要するにクーデター、が起きる一歩手前でした。

正常化を目指せばファシスト党はもはや制御できない。しかしファシスト党の言う「革命の第二波」を実施するとして、国民がそれに従うかは分からない。

1925年1月3日ムッソリーニは大きな賭けに出ました。
下院で次のように演説しました。

「イタリアは平和、平穏、平静な労働環境を必要としている。我々は、もし可能ならば愛によって、必要ならば力によって、それをイタリアに与えるだろう。私のこの演説から48時間以内に状況が全国で明確にされるであろう」

そしてムッソリーニは行動に出ます。
ファシスト党出身の内務大臣に対して、公安に対する脅威となる組織をすべて解散させるように命じ、武器の没収も指示しました。

勿論、反ファシスト分子がまとめて検挙されました。
これで民主的な抵抗はもう出来なくなりました。
しかし、実はこの時、地方で統制の効かないファシストも解散させられました。

ムッソリーニは、マッテオッティ事件を利用して独裁権力を確立したのです。

しかし興味深いのは、議会における過半を握っており、別にこのような手段に訴えなくても、好きに政治はできた事実です。

ムッソリーニが独裁に走ったのは、ファシストからの突き上げを抑えるためです。
チグハグな話ですが、ファシストの行動主義、要は暴力性で人気を得た男が、最後には彼らの凶暴性を抑え込めず公権力を手にして、独裁をするしかなかったのでした。

暴力で人気を得た男は、暴力におびえて、独裁者になる。
強いから独裁者が生まれたのではない。
むしろ不安定だから独裁をするしかなかった。
こうしてイタリアに独裁者「ドゥーチェ」が誕生した。

民主主義の壊し方

民主主義が死ぬ。
使い古された警句です。

だけど、本当に崩壊するというのはこういうことです。
ストで機能不全の革命前夜に暴力集団が跋扈する。
それでも議会と選挙が辛うじて生きていました。

イタリアの民主主義が死んだのは、ファシスト党が「革命の第二波」を求めて、国が転覆される危機に陥ったからです。

民主主義をストであれ、暴力であれ、議会に選ばれていない人が別の形で国を操作しようとする動きが、民主主義を崩壊させる第一歩なのかもしれない。

多分ですが、日本の民主主義は今のところ生きています。
この記事の執筆段階では。

あとがき

この記事を書いた理由は二つ。
一つはこの映画を今週みたから。
ちなみにアマプラに来てます(2024年7月現在)

もうひとつは、インターネットのやりすぎでX(Twitter)で都知事選の結果を巡ってみんなが好き勝手に言っていて羨ましかったので俺も何か言いたいから。

ただそれだけです。

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何か一つでも心に残ることがありましたら幸甚です。
最後までお読みいただきありがとうございます。

参考文献

高橋進『ムッソリーニ 帝国を夢見た男』山川出版社、2020年

舛添要一『ムッソリーニの正体 ヒトラーが師と仰いだ男』小学館新書、2021年

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