#55|16 2020年9月7日 ある視点
MとMの友達と映画を見に行く約束をしていたのでそれに合わせて身支度をしていた。トイレに行って用を足して流そうとするといつもよりも水量が確実に少なく、流れ切らなかった。そういえばトイレに入った時からタンクに水を供給している音が聞こえていた。直前に同居人が使ったのだろう。このトイレはタンクに水が溜まるまでかなり時間がかかるようで、2分ほど待ってもう一度流してみたが水面が少し揺れるだけだった。同居人は使ったばかりだと思われるのでとりあえず何も言わずにまず先に着替えることにした。部屋に戻るとMから「シウダデラを通って映画館まで行くのでもうそろそろ降りてきて。言っておくけど今日見るのはインディー映画だからね。あまり面白くないかもしれないけどそのつもりで。」とメッセージが届いていた。インディー映画は見た事がなかったので興味がある、すぐに降りていくと、とだけ返信してトイレにもう一度行った。やはりタンクから水が流れる音は聞こえたが、もう一度流すと勢いよく流れた。やっぱりこの家はどこか足りないんだよなぁ、などと思いながらシウダデラに向かった。
Mは夫から届いた動画を嬉しそうに見ていたが特に何の動画かは教えてくれなかった。ヤマグチ公園の近くにある映画館に向かう道中で映画のあらすじを教えてもらった。2人のレズビアンカップルの生活をドキュメンタリー風に撮ったものらしい。ところが映画館に着く直前でコロンビア人の同居人からその映画を今日見たけどつまらなかったという話を聞いて、クリストファー・ノーランの『Tenet』を見ることにした。3人でポップコーンを2つ買い、わけながら食べた。チケット代と飲み物代も合わせてたったの8ユーロ。映画は時間が逆行する技術を使って第三次世界大戦を防ぐといった内容のアクション映画だった。
それを見ながら突然ある思いが脳裏によぎった。劇中では時間が「現在から未来への一方通行である」というルールを無視する技術が登場する。そもそも時間とは人間が勝手に決めた概念である、と何かで読んだことを思い出した。「1秒」だとか「1時間」というのは人間の定めた概念であり、人間の「1人」や木が「1本」と数えるのとは明らかに違う。時計の針の動くスピードとおおよその太陽の動きとを合わせただけであり、うるう年やうるう秒なんて物で調整する必要がある。地球を出ると「1秒」なんてものは通用しないのだ。こう考えると自我とは一体何だろう。スペイン語が難しいだとか、踊るのが嫌いだとか、寿司が旨いだとか決めているこの「自分」や「性格」というのは誰が定めたのだろうか。先天性のものがどの程度影響しているのかわからないが、後天的な影響が少なからずあるはずだ。1人の人間の体がここにあって、感情と呼ばれるものが性格という形をとって行動に表れるのだろうか。はたしてその感情は普遍的なものだろうか。自分の外、つまり他人に対しては、地球外での時間のように、僕と言う人間の定義など通用しないのだ。だから何をしてもおかしくないし何を言っても不自然ではない。重要なのはその場の環境であり、状況に対して行動がかみ合うかという適合性だけが「内」と「外」の両立に必要なのではないだろうか。他人にどう見られているのかを常に考えるべきである、という事ではない。自分の行動を決定するのは意思であり感情が大きく左右するが、感情などと言うものは所詮は「内」で定めたと思い込んでいるだけなのであるはずだ。そう考えると今までは嫌だ、辛い、と思っていたことも他人から見ればどうだっていいことなのである。1人の人間の体を自由に動かすことができる権利を持っているのでそれをもっと有効に使おうじゃないか。日本人男性の平均寿命は現在約84歳である。今の年齢から差し引くと残りの人生は約60年である。この時間をもっと色々なことに費やして感情を決定づける材料にするべきではないだろうか。これこそが長い目で見れば人生の豊かさにつながる。ここでMの言っていた言葉をふと思い出した。「経験しておくことだよ。」映画を見ながら一瞬だけそんな事を思った。
映画館を出て案の定Mに感想を聞かれたので、アイディアは好きだが、ストーリーはいまいちだった、と答えた。もう1ヶ月くらい脚本に費やせばもっと面白い映画になっただろうに、と思ったが口には出さなかった。
(9/8 1:18 パンプローナ自室にて執筆)
a
現在、海外の大学院に通っています。是非、よろしくお願いします。