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宮崎駿『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』

宮崎駿さんの「ナウシカ」から「千と千尋の神隠し」に至るまでのインタビュー記録です。

一気に読了しました。言葉のそこかしこに、ものを創り出す人間という生き物のエネルギーが迸っていました。最初は乱暴ともとれるような宮崎氏の粗いものの言い様に躊躇してしまいましたが、そこには強い信念が頑として存在することの証でもあることが腑に落ち始めると、氏には愛しか感じなくなりました。天才という言葉があるのなら、天才的クリエイターだと思います。

さて、宮崎氏は数多くの作品を手掛けていますが、基本的には「子どもに見せるものを創る」ということを念頭に置いて映画を製作してきたのだそうです。(作品によります)そこが、宮崎氏の手掛けるジブリ作品の軸を貫いているのだということが改めて浮き彫りになりました。もう一度、ナウシカ、ラピュタ、魔女の宅急便、トトロ、もののけ、千と千尋と、映画を観ていきたいと思いました。


インタビューの中で個人的に印象的だったものをご紹介します。

★主人公が女の子が多い理由は?
男の方が生きにくい時代だということは間違いないと思う。自分の周りを見ても元気の良いのはみんな女。男どもはみんなおろおろしながら自分の行く末を探しているって感じがする。

風の帰る場所

★なぜ悪人が出てこないの?
悪人が出ないようにしている。僕は回復可能なもの以外は出したくない。本当に愚かで描くにも値しない人間を僕らは苦労して書く必要は無い。描きたくないものを、なんで描かなきゃいけないのか。僕は描きたいものを描きたい。

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★なぜ子どもに向けて映画を創るのか?
子どもたちはみんな真面目に、「自分はどういう風に生きていたらいいんだろう」って思っている事は間違いない。それに対して、大人たちは「自分のように生きればいいんだ」とは言えない。だから自分たちが映画を作るときに、その根本だけは忘れちゃいけないなと思う。

風の帰る場所

次に、各映画のエピソードの中から心に残ったところを記録してみます。

★ナウシカ
ナウシカでは、傷を持たないヒロインは作りたくなかった。背負って歩いている人間だから描くに値する。「純潔である」とか「汚れていない」ことに価値があると言う見方はとてもくだらない。同じ人物でもものすごく愚劣な瞬間があったり、そこから思いやりに満ちたり、そのように変化し動くものだ。
腐海をイメージする時も、美術の人が森を描く。その森は、自分の中にあるものとは違うけれど、何が正しいっていう事はないわけなので、ずっと当惑しながらやっていた。
ナウシカが終わった後、「やった!」じゃなくて「切り抜けた!」っていう実感の方が強かった。なんて運がよかったんだろうと。

風の帰る場所

宮崎氏の設定する主人公に私が惹かれてしまうのは、その人自身も闇を抱えていたり影を背負っていくからなのだと気づきました。完璧な存在なんてあるもんかという言葉が聞こえてきそうです。また、映画のストーリーというものは、企画が出た段階で決めてしまうのではなく、製作しながら形が出来上がっていくのだということにも驚きました。
また、ナウシカの製作が終了した時に、やりきった!という清々しい達成感ではなく、やっと終わった!という安堵が出たというのも意外でした。
その他にも、「ナウシカ」のコミック版とアニメーション版での葛藤や、コミック版を生み出す氏の苦しみも吐露されていて、「ものを生み出す」ということは斯くも過酷なことなのかと驚きました。


★ラピュタ
なんでもない少年が映画の中で主人公になっていく様を描きたった。
ラピュタの中では「頭」という存在が登場する(千と千尋では釜爺的な存在)。それは、おじいちゃんおばあちゃんの存在であって、自分の子供に対しては目がくらむけれども、人の子供や孫の世代になると少しものがわかる、無条件で味方してあげられる、見所があるから味方をしてくれる、そんな存在を描きたかったから。
一見不機嫌だったり口やかましかったりするかもしれないけど、わかってくれる人、すぐ横にいる人の存在は少年少女にとってはつっかえ棒になる。それは、いつの間にか物の考え方や心構えを仕込んでくれる人の存在である。そういう人にちゃんと出会ってその人の影響をちゃんと被って初めて、社会の中に定着することができる。みんなのことを見下したり自分が才能があるという見方で世間を見てると、伸びない。

風の帰る場所

★トトロ
トトロは自分の子供時代に対する一種の手紙。緑を全然綺麗だと思えなかった、ただ貧乏の象徴にしか思えなかった自分に対する手紙だった。

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★もののけ姫
最後の場面で、アシタカが「君は森で生きる。僕はタタラ場で生きる。」と言うが、アシタカがそう言わざるを得ないと思った。「人間を許すことができない」とあの女の子ははっきり言うだろうと思った。それに対してアシタカは「それでもいいから一緒に生きよう」と言うだろうと。つまり、サンはアシタカに突き刺さった棘なので、今後大変な目にあうだろうなと思いつつ、でもアシタカはそれを背負って生きていくんだと決めた。
また「もののけ姫」には人が殺されるシーンが出るが、あえてポスターに血を出した。血がおぞましいものだと決めつけてしまうこと自体が変でしょう。生きてるってことは、血が流れて生きているんだから。そういうものとして血を表現してもいいと思う。血は出ていいんだということ。

あと、エボシの腕から黒いものがわーっと吹き出してくるシーンもあるが、憎しみや憎悪はそれをかきたてると再生産する。相手側にも同じ憎悪を作り出す。

風の帰る場所

逆上すると腕から黒いものが噴き出すのは、出したものが止まらなくなってしまう様を表現していたのですね。

また、アシタカに言わせた「君は森で、ぼくはタタラ場で」という言葉も、今の時代においてもその通りであり、この観念は時間を超えたところにある永遠の価値観だと感じました。


★千と千尋の神隠し
千尋が電車に乗るシーンがクライマックスだ。千尋が自分の意思で電車に乗って、あそこで幻想の世界と現実の世界を全部自分の世界観の中で引き受けた。初めての世界に直面し、自分の意思でしっかりきちんと電車に乗って行くこと。本当はビクビクおどおどしているはずなんだけれど、毛ほどもそれを見せないでやっていく。そこがクライマックス。その時の窓の外が海であることもこのシーンができた理由になる。
また、最初の部分で、困った千尋をハクが助けに来る。現実世界ではあのような場面になっても助けに来てもらえない子どもがいるし、そういう人生を生きている人の方が多いが、千尋にはきた。それを受ける入れることができる人たちの映画として創った。ただ、実際は助けが来ているけれども、気がついていないだけなんじゃないかと思ったりもする。閉ざしていれば気がつかないと。だから観客として設定した子どもたちがそういうものを受け入れてくれたらいいなと思った。
ここで出てくるカオナシは巨大化させなかった。巨大化させるのはシシ神で最後。結局突き詰めていくと巨大化させるてしまうと原爆のイメージでしかなくなる。千と千尋は女の子の心にとってリアリティーのある世界だけにしたかった。

風の帰る場所

「子どもに見せるため」にアニメーションを創っている宮崎氏の深い愛を感じるエピソードでした。


さて、宮崎氏の中にある価値観の一つがコミュニズムだそうですが、そのコミュニズムの氏なりの解釈は次のように語られていました。

★コミュニズムとは?
コミュニズムの理想は、人間はより高くありたいとかより高貴でありたい、人から屈辱を受けたくないという、そういう価値はがあると思う。コミュニズムの方が自然にも良い。自由主義は全員が裕福になれるわけではない。

風の帰る場所

また、ナウシカから千尋に至るまでの経緯で、大きく変わってきた舞台設定について、次のように語られていました。

★ナウシカの時代は倒すべき敵がいた。もののけでは敵も味方もなくて全部引き受けるという方向で世界観が構成された。千と千尋では敵がいないどころか、シシ神のような巨大化もない。

風の帰る場所

宮崎氏のクリエイションの足跡は次のように語られています。最初にストーリーが浮かぶのかと思ったのですが、そうではないのですね。

★作品を作る中で無意識の奥のほうの、意識ができない部分で筋道は大体できている。それを意識の上に拾い上げるのに時間がかかる。例えば電車でとぼとぼ行くとか電車降りたらまた歩くとかその時は夕焼けをバックにして歩くと言うような断片的なイメージはもうできている。そこから積み上げていく。

風の帰る場所

製作の過程で、ストーリーや「どこまで説明するか」などのせめぎ合いがなされるそうです。例えば、王蟲を殺すか殺さないか、ナウシカを殺すか殺さないか、商業と啓蒙と手管(たくみにだます技術)と、子供に見せたい映画であることのせめぎ合いの中での製作になっていると知って、クリエイションの現場のすさまじさが私の胸の中に渦巻きました。本気のぶつかり合い、本気と本気と本気がすさまじい攻防を繰り返した挙句の果てに、ようやくああしたアニメーションが出来上がってくるのかということに、改めて畏敬の念を感じざるを得ませんでした。私がイメージしていたような、ふわふわとやさしくて楽しくてゆるやかなクリエイティブな現場、、、とは真逆でした。もうこれは戦場と言っていいような。

さて、宮崎氏の映画は「子どもに見せるため」という軸が通っていることは冒頭でご説明申し上げたのですが、それについて氏が語る場面がとても心打つものだったので、こちらの部分をご紹介して終わりにします。

★えらい状態になっている世界の中で生まれてきた子どもたちを見ると、この子が生まれてきたことを肯定せざるをえないよね、否定できないよねというところに落ち着いた。その子の存在と日本や世界の状態にどのように橋をかけていくのか、この子はどういう目に合うのか、それを越えていけるのか、その中で踏みつぶされてしまうのか、それも含めてこの子が生まれてきたことに対して、えらい時に生まれてきたねーって真顔で言ってしまう自分か、それとも生まれてきてくれてよかったんだって言えるのか、そこが作品を作るか作らないかの分かれ道。だからどんな状態になっても世界を肯定したいって言う気持ちが自分の中にあるから、映画を作るんだよね。

風の帰る場所

宮崎氏の深い愛とクリエイターの情熱・葛藤・苦悶・信念が浮き彫りにされるインタビュー本です。薄っぺらい表現にしかなりませんが、胸が熱くなって夢中で一気に読みました。

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