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宇宙が存在する理由③:最新哲学からインテグラル理論を再考する。暫定版

インテグラル理論は最新哲学「新実在主義」「思弁的実在論」には批判されている。しかし、ここでは完全に相容れないものではないと捉える。

むしろ最新哲学こそインテグラル理論的である。
このうち「新実在主義」「思弁的実在論」も完全に相容れない存在ではない。

そこで新たなインテグラル理論を考える上で、最新哲学に否定されるくらいなら、いっそのことこれらを取り込んでしまう手はないだろうか??

最新哲学の統合

今回まず行うのは、新実存主義と思弁的実在論のすり合わせだ。

①新実存主義は即自的な宇宙という領域を認めている。富士山で例えるならば、富士山そのもののことを指す。
②思弁的実在論はこの宇宙の範囲でのみ通用する哲学である。
③思弁的実在論単体では還元主義すぎるし、思弁的実在論を含んで超えていない新実存主義は相関主義すぎると批判する。その上で、お互いを補完する。④新実存主義では一つの言葉や概念で説明できる世界、心は存在しない。このため、思弁的実在論が通用する宇宙は限られている。
→つまり、思弁的実在論は通用しない範囲と宇宙(思弁的実在論も通用)がある。
⑤思弁的実在論は無矛盾なものの存在は認めない。しかし、新実存主義はまさに矛盾したものがないと意味の場を作り出せないとする。
⑥ようするに、矛盾が生じる範囲と、それよりは小さな無矛盾な範囲「宇宙」がある。
⑦思弁的実在論は、新実存主義の相関主義さの調整役である。
⑧心を説明する一つの概念が存在せず、単一の世界が存在しないからこそ、かえって人間の存在を無視した「宇宙」がグローバルなコミュニケーションのツールとして重要になる。その核を担うのが思弁的実在論である。

これらのことから、インテグラル理論における四象限を再定義することができる。

インテグラル理論四象限の再定義

1.矛盾性×即自的でない「精神」
→インテグラル理論的な「心」のことであり、新実存主義が掘り進める「Geist 精神」とは文脈が違うので注意が必要。完全に一対一対応したものとは捉えない。むしろ、「精神」は1〜4すべてに関わる。
2.無矛盾×即自的でない「身体」
3.矛盾性×即自的「文化」
4.無矛盾×即自的「宇宙」
これら四つである。

①これら全てに共通する単一の世界は存在しない。精神という象限と心が単一の言葉や概念で決定されることはない。
②宇宙でさえ意味の場に現れる以上は一定の矛盾性を持つ。
③精神より身体と文化は無矛盾性の傾向が強い。
④意味の場に現れていないものは、無矛盾律と偶然の必然性がある。そしてそれがゆえに偶然意味の場に現れてくる。
⑤これらのものは明確な境界線を持った概念ではなく、傾向的に分けられる。

説明性のルール

そしてこれら四象限には説明性のルールがある。
①意味の場に現れた無矛盾な物語は、他の象限を無矛盾な範囲で対応する形で説明できる。
人間なくして数学が宇宙に存在したわけがない。
数学が意味の場に現れる限り、新実存主義に従う。

しかし、それがより無矛盾であるがゆえに、この宇宙はまるで数学が成立しているかのように振る舞う。無矛盾であるがゆえに、無矛盾な即自的な宇宙との親和性がある。

②しかし、サイクリングと自転車モデルで説明されるように、宇宙は心を部分的にしか説明できない。

宇宙の象限でたった今、意味の場に現れている精神を説明することは、相手の心を知るときにその都度脳波やレントゲンで計測するような問題を引き起こす。相関はするが因果関係を突き止めることはできない。

③心は矛盾性と無矛盾性の両方を持つので、無矛盾性の高い宇宙を説明しやすいが、宇宙は無矛盾性に偏った傾向を示すため、矛盾性のある心を説明しずらい。

たとえば脳波で怒りを感知し、その相手を怒っていると暫定することはできるかも知れない。しかし、その人がどう怒っているのか、その人の中での怒りのレベルを判断すること、何をどのくらいどう考えているかは無矛盾律(脳波)だけでは説明できない。

しかし、宇宙人がどのような存在か考察するSFを様々なパターンで大量に書けばどれか一つくらいはそれに近いものとなり、そのSFのストーリーが無矛盾な内容であるほど実在する宇宙人に近いものを説明できたことになる。

つまり、宇宙を説明するときはより、矛盾性のある物語よりも、無矛盾な物語のほうがどちらかといえば説明能力が高いことになる。

これと同じことが、即自的な文化や身体、この宇宙にも起こっている。意味の場に現れていない即自的なものを推測するときは、無矛盾律、つまり論理的思考があったほうがより説明しやすくなるのだ。

歴史の空白を想像するにせよ、見てない漫画のストーリーを想像するにせよ、即自的なものは今まさに意味の場に出ているものより無矛盾性が考慮されやすくなる。

とはいえ、宇宙の説明するにも矛盾性が不要と言っているわけではない。矛盾する能力(1+1=3を考える力)がなければ無矛盾律(1+1=2)を説明することさえできなくなるので、意味の場は無矛盾律には一方的には従わない。むしろ矛盾性が無矛盾性の必要条件になっている。

具体例:あの日みた石ころはたとえそれが妄想であったとしてもそれはそれとして存在している。しかし、なぜあの時に(たった今、思いついた妄想だったとしても)石ころがあったのかは必ず偶然である。

その石ころをもう一度見に行くためには、その石のことを参照しなければならない。そして、その「石ころ」をもう一度見つけた時、本人が考えていた石ころまったくそれだと思えば、それと無矛盾な範囲で、その「石ころ」は存在している。他の人が違うと思えばその人には違う[石ころ]で、その人にはおなじ「石ころ」である。もし、[石ころ]を「石ころ」だと言い張るなら、その時にはその人を納得させる物語が必要である。これが科学である必要もないが、無矛盾な物語のほうが共通言語としやすい。この時に無矛盾性が考慮される。

石ころと「石ころ」と[石ころ]を一つの【石ころ】にまとめる単一な世界は存在しない。それでも、何らかの手段を持ちいて「石ころ」が[石ころ]と無矛盾だと説明できる。

宇宙人は必ず存在する

単一な世界は存在しないが、それ以外のもの全ては存在している(宇宙とは矛盾するかも知れないが)。その中で、無矛盾なものは宇宙領域でも宇宙に(直接観察されるかは別として)必ず現象する。

ちょうどこの宇宙に地球人以外の宇宙人がいるか、会えるかは分からないが、少なくとも偶然性の必然性があるため必ず地球人以外も存在する。

「空」「形」二元性

完全なる無からは何も生まれないため、この宇宙の最初は少なくとも何かになれるタイプの無であったことは確定している(これは哲学、宗教、自然科学でも反論はない)。ここではこれを「空」「形」二元性と呼ぶ。

この状況下で偶然性の必然性(無矛盾な限り、どんなことが起こってもおかしくはない)が発生するので、宇宙人は(それと会えるかは別として)必ず存在している。半々の確率で裏表のどちらかになるコインを、投げたら必ずいつかは表がでる。

そして偶然性の必然性はコインが必ず投げられることを意味している。これは「宇宙人の『偶然性の必然性』ゆえの必然性」と呼ぶことができるだろう。

また、オムニバース(空+この宇宙+他の宇宙)は高度知的生命体(意味の場、矛盾を作る存在)を生じさせやすい諸傾向を持つ。中程度の人間原理である。

弱い人間原理:’’この宇宙’’は人間(高度知的生命体)が存在できるような性質を持つ(無矛盾律からすれば、1+1=2や、「空」「形」二元性と同じくらいあたりまえのことである)。
中程度の人間原理:この宇宙はいわずもがな、他の宇宙も人間が存在できるような性質をもち’’やすい’’。
強い人間原理:他の宇宙’’すべて’’も人間が存在できるような性質を持つ。

最新のインテグラル理論の性質

以上から最新哲学を参考にしたインテグラル理論の性質をまとめる。
⓪精神(矛盾した存在が必要)と宇宙(思弁的実在論も成立)の二元性。
→新実存主義の中に思弁的実在論が成立する範囲があり、それが即自的な宇宙。新実存主義は思弁的実在論を含んで超えている。あらゆる意味をひとまとめにする唯一なる世界は存在しない。全く対応した説明ができてもそれそのものではない。
①矛盾、無矛盾、非即自、即自の四象限性

②無矛盾律説明性:ある意味は他の意味や、宇宙と無矛盾な範囲で対応して存在している。

・Aさんの1+1=2とのBさんの1+1=2は別物だが、Cさんは自らの①+①=②と照らし合わせて無矛盾だと判断すれば、両方に〇を付けられる。この◯を付ける作業には宇宙が必要条件となる。
・人間がいる前から宇宙に数学や1+1=2そのものが存在するわけがなく、数学の存在には矛盾が必要である。しかし、数学自体は無矛盾な物語のため、宇宙はまるで数学が実在するかのように振る舞う。とはいえ数学がいくら宇宙の振る舞いを説明できたところで、宇宙は数学それそものではない。

③精神の説明優位性
精神による宇宙の説明性は、宇宙による心の説明性よりも必ず優位である。
→サイクリングで自転車は説明できるが、自転車でサイクリングは説明できない。そしてそもそも矛盾が意味の場の必要条件であり、矛盾性がなければ無矛盾律を説明することもできない(1+1=3を想定できずに、1+1=2を考えることはできない)。ゆえに矛盾性「精神」は無矛盾律「宇宙」に対して説明優位性を持つ。

④「空」「形」二元性
少なくとも宇宙は完全なる無ではなく、何かにはなれるタイプの無から始まっている。完全なる無は存在しない。その意味でニヒリズム虚無主義ではなく、虚空主義(ニヒリズムを採用した人にとってはニヒリズムだが、ニヒリズムという真理はない。意味がないのではなく、意味をだしていないだけ)ともいえる。

新実存主義で「世界が存在しない」のは、「空」「形」二元性を持つ意味の場を「形」にできないから存在しないのである。「形」になっていないものは「空」であり、「空」には思弁的実在論が新実存主義に従いながら成立する。

⑤「『偶然性の必然性』ゆえの必然性」「宇宙人の証明」
意味の場に現れる無矛盾な物語には、それと無矛盾な範囲で対応した存在が宇宙象限にも必ず現象する。宇宙人は会えるかは別として必ず存在する。

⑥中程度の人間原理の支持
この宇宙はいわずもがな、「空」、他の宇宙も人間が存在できるような性質をもち’’やすい’’。

インテグラル理論の意味

インテグラル理論は、個人個人の持つ細かな意味に言及するよりも集団の文化に着目する。

自分や相手をインテグラル理論に全てはめて説明するのは無茶だ。通用しない範囲がある。直接その構造を読むならばインテグラル理論を使うよりも、それそのものの構造を直接観察したほうが良い。

なにより新実存主義は統合的なものの試み一切をやめ、個々の構造をより先入観なく見よと言っているのだから。これを含んで超えた視点がインテグラル理論にも欠かせないのである。

とはいえ、統合的なものの試みは一切合切無駄ではない。しかし、あくまで新実存主義の下での1プレイヤーにすぎない。これは、ニヒリズムを採用した人の中ではニヒリズムが成立しているようなものだ。通用する範囲がある。それは無矛盾な範囲においてだけだ。だとしても、その中でかなり広いものと、かなり狭いものがある。そのかなり広いものがまさにインテグラル理論だ。

そして、思弁的実在論を新実存主義に部分的に導入すると話は少し変わってくる。

ようは、②無矛盾律説明性において活躍するのである。そして、自然科学の対象とする宇宙を説明する役割を自然科学に任せた以上、人文科学的な、文化社会的な役割のほうをインテグラル理論は担うべきである。ようは四象限のうち「文化」を担うものがインテグラル理論なのだ。

特に、これらの役割まで自然主義や還元主義が担うことは厳しく、かといって新実存主義では「単一な世界が存在せず、一人一人の心は違うからより広くなるほど分かりあうことができない(旧実存主義よりは遥かに分かり合えるし、他人は全然地獄なんかではないにしても)」という結論しかでない。このフラットランドを乗り超えるためには、まさにそのフラットランドの乗り切りに焦点を当てたインテグラル理論が必要なのである。

よって宇宙における即自的な人間の動きやふるまいを、包括的に記したできる限り無矛盾な物語がインテグラル理論である。

マルクス・ガブリエルが強い自然主義を強く批判する一方で、弱い自然主義を肯定するように、インテグラル理論も弱い自然主義的な立場を取るべきである。比較的、無矛盾な物語としてのインテグラル理論である。

心というものを説明する単一な言葉や世界は存在しない。ゆえに、かえってその中でも比較的広い範囲に通用する共通言語が求められている。

その時に対象領域「宇宙」には思弁的実在論を元とした科学や、自然主義的態度、思弁的な唯物史観が通用し、「文化」にはインテグラル理論が通用する。しかしながら、これらはあくまでよりグローバルに話し合う、無矛盾な範囲で対応するための手段にすぎない。ローカルに物事を捉えるとき、話し合うとき、そこにはその構造がある。

それを見る時は、その構造で直接考えたほうがいいに決まっている。そこにまで、自然主義やインテグラル理論を当てはめることはできない。単一な世界など存在しないのだから。まさにこのことを新実存主義は解いている。

それでも、かつての実存主義ほどに「他人とは分かり合えないから地獄」ではないにしても、新実存主義は「グローバルになるほど分かり合いにくくなる」とは言っている。その中でもある程度グローバルに分かりあうための物語として、無矛盾律、宇宙、文化への考察が必要なのだ。まさにそのときに、インテグラル理論は必要だし、インテグラル理論が効果を発揮する。

こう考えた時に、統合的な見方は一切やめるべきだし、推し進めなければならないのだ。

ようは、統合的な見方が各構造を完全に説明するものだと考えることを一切放棄し、むしろであるからそこ話さ合いに必要な場合を認める。

このように擦り合わせることで、インテグラル理論は、新実存主義に含んで超えられることによって、インテグラル理論自体も新実存主義を含んで超えるのだ。

……物事は部分的に正しい。
まさにこのインテグラル理論が言わんとすることは、新実存主義そのものなのである。

後述:ざっくりとこの話の結論をとるならば、強い自然主義や強い唯物論(つまりニューロン中心主義)を否定する新実存主義「心」という一個の現象や実在などありはしないという見解を受け入れつつ、メイヤスーの思弁的実在論「偶然の必然性」までは否定しない立場を取る。弱い新実存主義である。

その上で、精神の矛盾(矛盾を必要とすること)と、宇宙の無矛盾さを捉える。無矛盾な宇宙は精神の矛盾を完全には記述しないが、精神は無矛盾を含んでいるので、まさにメイヤスーが取り組む数学(無矛盾な物語)での宇宙の記述が成立する。しかし、宇宙は数学で記述できるし、宇宙はまるで数学のように振る舞うが、数学そのものではない。この点において世界は存在せず、数学が人間の影響を受けている(が相当に人間と独立してもいる)という極めて弱い相関主義を残す。つまり、数学(無矛盾な物語)を使えば実在そのものに無矛盾な範囲でとてつもなく近づくことができるし、宇宙は無矛盾だから特に数学(無矛盾な物語)で相当に記述できる。が、宇宙は数学、全くもってそれそのものではない。かなり思弁的実在論だが、最後にちょっとだけ相関主義が残る。ただそれは宇宙領域を説明するという数学という試みで、宇宙を説明しようとしているだけにすぎない。そこで説明した宇宙や数学が「ユニコーンやら」を説明することには全く適さない。この意味において世界は存在しない。

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