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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

最近読んだ海外文学と詩

まずはフィリップ・ロス「いつわり」(1990年発表)。200ページそこそこの作品だが、読むのにすごく疲れた。
 意欲作っちゃ意欲作で、フィリップ・ロスを思わせる作家の情事の様子を会話文だけで書いた実験的なオート・フィクションなのだが、中身は「ユダヤ人性とは……」云々(と生活に疲れた中産階級女性とのロマンを欠いた情事)であり、貧乏弁当そっくりの国旗を掲げる国に住む筆者には、その重要性がピンとこないのである。
強いて面白かったとするなら以下の下りとか。

「家庭ってものは、間男の付け合わせがついて完璧な料理になるんだよ」
「本気?」
「やってみるかい?」
「面白そうね」

(四つ葉のクローバーの章代わり記号)

「母さんに、人前ですっぼんぽんで座ったりするもんじゃありませんって言われてるんだから」
「それに、両脚を殿方の肩にのせたりしちゃいけませんって?」
「それは言われなかったわ。まさかあたしがそんなことしようとするなんて思わなかったのよ」

p66.

次がオルハン・パムクの「赤い髪の女」(2016年発表)。トルコも何かと大変な国である。
あらすじ:井戸掘りの親方マフムトと弟子ジェムの前に移動劇団の赤い髪をした女優が現れた。ひと目で心を奪われた弟子は親方の言いつけを破り赤髪の女の元へ向かったが、その選択は彼の人生を幾度も揺り動かすことになる……。

我が国だと中上健次っちゅう作家が「赫髪」という性と暴力に満ちた短編を書いていたり、ナンバーガールの「透明少女」というロックに

赫い髪の少女は早足の男に手をひかれ/うそっぽく笑った

そんな歌詞があったりする。
で、ここの赤髪の女はどうかというと、気まぐれな女神と呼ぶべきだろう。

その話の前に、本作にはある仕掛けが仕込まれている。その詳細はご自分の目で……とは言わない―たぶん誰も読まないから。

ネタバレ:この話、ずっとジェムという思慮の足りない男が、親方を井戸の底へ遺した(※結局生きていたが)罪悪感からオイディプス神話などに絡め取られつつも社長として成り上がるも、一夜だけ関係を持った赤髪の女の息子エンヴィルと数十年後に出会い、揉めて取っ組み合い無様に死ぬという何とも暗い話に見えるのだが、この話自体赤髪の女がエンヴィルを唆して書かせた、エンヴィルの無罪を裁判で示す記録だった。
だから素直に「ジェムってサイテー!」と読むのはナンセンスである。エンヴィル及び赤髪の女による「我が身を弁護するため」「のちの世の教訓とするため」の恣意的な改ざんが行われた、と見なければならない。
たとえば、本当にジェムと赤髪の女の交わりは一夜の過ちだったのか?そもそもジェムがマフムト親方を置き去りにしたのは事実なのか?

……しかし、こういう物語の恣意性を指摘する作品に筆者は食傷気味である。だから何だというのだ。この話を読み終えて残るのは思春期の自意識狂いの退屈な青年エンヴィルと愚かな愚かな母親である赤い髪の女(※しかも染毛)の不気味な母子密着の蔓延る、パサパサに乾いた世界でしかない。
そんな世界よりはチープでもお涙頂戴でも、筆者は何かを信じてみたいのだ。

ペーター・ハントケ「カスパー」(1967年発表)。
あらすじ:生まれてから16年間地下室に閉じ込められ、人間的な営みから隔離されて育った孤児の少年が突然、文明社会の中に投げ込まれ…。実在の人物カスパー・ハウザーを、現代を生きる孤独な個人としてよみがえらせる。

言語とはしばしば権力と結びつき、暴力性を帯びる。沖縄方言の弾圧や創氏改名など思い起こせば頷ける話だろう。
それをカスパーという野生児に託して、個人が言語と出会う際の暴力性を語った作品なのだが……正直タコつぼ化している気がしないでもなかった。
ただ、言葉は無意識的な構造を有するとラカンは言った。あるいはこうして何気なく発した言葉が複雑な無意識の迷路を通って、いつか誰かを発狂させたり自殺させたりするのかもしれない。少し怖い。
※そういえば飛浩隆氏の「自生の夢」はそんな話だった。

超どうでもいい話。
ソシュールが言語はシニフィアンとシニフィエから成り立つと言ったのは、皆さんも毎朝学校で音読させられていたから知っているとは思うが、一応話すと、確かシニフィアンが音、シニフィエが意味を示すのだったか。たとえば林檎なら、「り・ん・ご」という音がシニフィアンで、「甘い、赤い、うさぎ……」といった意味がシニフィエである。
で、なんでこんな話を振ったかというと、故中上健次氏のこんな話を突然思い出したせいである。
氏が国道沿いを走っていたとき、農家の多い田舎に来たらしい。そこの看板にいちご取り放題だったかいちご摘み放題だったか、そんな文言がいちごを模したフォントで書かれていたらしい。
それに吐き気を催した、というのが氏の話なのだが、これじゃ何だかわけわからんので、もう少し喋る。
下品な話で申し訳ないが、「天皇のチンポ」と言うことは許されない。いや、許されるかもしれないが、右肩に翼の生えた天使の末裔にインドラの矢で滅ぼされる覚悟が必要である。
だが、これをシニフィアンとして見れば「て・ん・の・う・の・ち・ん・ぽ」という単なる音節の連なりに過ぎない。
だから言葉のシニフィエとは貨幣と似ていて、単なる紙と金属/音節(相対的なもの)が、いつからか絶対的な権威に取って代わるのである。
だから、なぜ中上氏がいちごで吐き気を催したかと言えば、それはいちごのシニフィアンとシニフィエのあまりにも愚直な癒着にあったのではなかろうか。天皇の権威や暴力性(それはまだ残っている)が「て・ん・の・う」という無意味な音節と同化し、汚染することをイメージすればいい。
また、氏は折口信夫の「死者の書」の水の滴る「したした」だったか、とにかくその冒頭の擬音語を褒めていたが、これもやはり同じで、シニフィエに汚染される前の、無垢のシニフィアンに比較的近いものとして氏が擬音語を捉えていたからに違いないと筆者は思っている。
なんかほんとに意味わからん話だった、これでやめる。

マーガレット・アトウッド「ペネロピアド」(2005年発表)。オデュッセウス神話を妻のペネロペの視点から書いた本作は、一つの謎を提示してもいる。

オデュッセウス神話あらすじ:オデュッセウスがなんか戦争に行き、行きは良い良い帰りは……ポセイドンの怒りを買ったとかで何十年もかかり、その間金目当ての再婚志願者がペネロペに押し寄せるも、ペネロペは父の喪服を織ると言い訳して逃げ、さらに夜になると織っただけ解くので喪服はいつまでも完成しない。ところがついにバレ、いよいよ……というところでオデュッセウスが帰還。志願者どもを皆殺しにし、ついでに彼らと関係を持ったかどで十二人の侍女たちもぶち殺す。

本作のキモは、なぜ侍女たちが殺されたのかという謎の究明であるが、結局明かされはしない。
※曰くアルテミスに由来する月信仰に伴う巫女政治を男性権力が簒奪した象徴だとか。

ペネロペは貞淑な女性などではなく(それは男性の理想なのかもしれない、魅惑的な娼婦たちの熱い一夜と、その「オイタ」をいつまでも待っていてくれる一人の聖女)この世の何もかもにうんざりした主婦であり、語り口に耳を傾けるだけでも楽しい。
ただ、彼女もまたエゴを抱え都合のいい話しかしていないのは事実で、侍女たちはコーラスで茶々を入れ続ける(ギリシャ悲劇のコロスに由来する)。
しかし、本当に誰も彼も「物語の恣意的な暴力性の提示」とか何とかが好きである。そんなに物語を疑わなきゃならんのか。
芥川竜之介の「藪の中」を長編800ページにすれば満足なのだろうか。

コーマック・マッカーシー「アウター・ダーク」。近親相姦を行った兄妹が、赤子を鋳掛屋に持ち去られる救いのない話。グノーシス思想(神を狂人と見る思想)や作者自身が生活難から長男を手放した経験が反映されているという。
聖書から換骨奪胎されたストーリーもあり、ドストエフスキーの諸作品を(特に「悪霊」)思いだした。

(その他)
三島由紀夫の「日本文学小史」。

ただ、二条の妃の

雪のうちに春は来にけり/うぐひすのこほれるなみだ今やとくらん

拙訳:雪の降るなかにも春が来たのです。鶯の凍った涙も今や解け、流れ始めたことでしょう。

この短歌の解説に「女らしい感情移入」とあるのは明白な侮蔑だろう(その後に「美しい独創的なイメージ」とあるにはせよ)。
ここにあるのはむしろ、確固たる幻視への意志ではないか。
山中智恵子氏や葛原妙子氏、詩人なら石垣りん氏の短歌や詩を読むにつけ、その地上性からの離脱の手際にめまいを感じる。これに比べれば宮沢賢治など足ふきマット以下である。斎藤茂吉など便所紙である。

特に昭和作家に、「女性とは生活べったりのハイパーリアリスト(やれやれ!)」みたいな書き方が目立つのは、彼らが単に家事や育児などの生活を女性たちに全部押し付けていたからではないか。
しかもそのなかから、石垣りん氏の「洗たく物」のような激しい内省に根ざした詩が出てくるのだ。
実に、男性とは有史以来女性の足を引っ張ってしか来なかったのではないか。

「パウル・ツェランと石原吉郎」。みすず書房から出ている、冨岡悦子氏という方の優れた両詩人の作品の比較評論だった。
石原吉郎といえばシベリア抑留経験に基づく断定と反復からなるある種の「貧しさ」を意志的に抱えた詩人というステレオイメージがあったが、

 幽明のそのほとりを 装束となって花はくだった もろすぎるものの苛酷な充実が 死へ向けて垂らすかにみえた そのひと房を。
 おしなべて音響はひかりへ変貌し さらに重大なものが忘却をしいられるなかを すでにためらいを終え りょうらんと花はくだった。

p254.

「藤 Ⅰ」と題された、このような美的傾向を有する詩を書いていたのは知らなかった。 
氏の短歌にも同じ題材の作があるらしく、水に映る藤が異界を呼び起こすという内容らしい。
釈迢空にも、水に映った自らの顔を来世と見なした短歌があったか。タルコフスキーの映画の水にも異界と死の気配がある。
そう考えると水際はこの世ならぬものを孕む場所かもしれない。
(そうだ上橋菜穂子氏の「精霊の守り人」で、王子チャグムが四つ這いになって卵を産むのもまさに水辺だ)


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