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成功しても満たされない心の理由

地位や名誉、年収など、社会的には成功を収めているような人たちでも、その心は満たされず、何をしても心から幸せだと感じないようなことが起きていると聞きます。

なぜそんなことが起こるのでしょうか、ここでは西田哲学に基づいてその構造をひも解いてみたいと思います。


まずは結論から

これまで、西田哲学に基づいて考えられる個性について述べてきましたが、何を達成しても心が渇いたままである原因は、この個性の欠如にあると言えます。

西田哲学に基づいて私が述べている個性とは、一般的に言われる個性とは異なるものですが、少し違うという程度のものではなく、180度異なることに注意が必要です。

なぜそうなのか、詳しく述べていきたいと思います。

基礎編:個性とは何か

「あいだ」について

※補足記事:AIと人間との違い

皆さんにとって、目に見えない大切なものとは何でしょうか?お金では買えないものでもよいです。

学生さんたちに聞くと、信頼とか、友情とか、愛情などの答えが返ってきます。社会人の方々は、コミュニケーションやブランド力なども挙げられます。

それらに共通していることは「あいだ」ということです。「あいだ」の性質は次のようにまとめられます。

  • 自分に関係している。

  • 自分だけではどうしようもできない。

  • その形成に関与することで捉えることができる。

「あいだ」を捉えるということは、それに関与する「行動=間合いを取ること」が必須です。動作としては動いていなくても、それが間合いを取っている限り行動です。

そのため、行動は人工知能(AI)には見えません。AIは動いたか動いていないか、その結果しか見えないからです。この「あいだ」を捉える人間固有の行為の目を宮本武蔵は観(かん)の目と呼びました。

西田哲学に基づいて考える個性

※補足記事:大学=「個性」をのばすことで短所を補う

一般的な個性は、「ある個人を特徴づけている性質や性格のこと」であり、パーソナリティやキャラクターなど、他者との比較によって見出されます。

他者に対する相対的な自分のことを自我と言いますが、一般的な個性はその自我についての性質や性格のことを指しています。

通常、私たちは時と場合によってパーソナリティやキャラクターを使い分けています。家では家での振る舞いをし、職場では社員としての振る舞いをします。

パーソナリティの語源はラテン語のペルソナ(persona)ですが、これは仮面という意味です。パーソナリティとは、その場に応じて演じられている仮の姿であると言えます。

それでは、仮面を取って素面をさらけ出したらよいでしょうか?

仮面を脱げ、素面を見よ、そんなことばかり喚(わめ)きながら、どこに行くのかも知らず、近代文明は駆け出したらしい。
(中略)
不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい。

小林秀雄、「當麻」

素面とは、すなわち自我のことです。適切に間合いを取るためにはその場に合う仮面をつけることが大切なのです。自分はこういう人間だと決めつけたり、自我に固執したりすると、途端にその間が保てなくなり、当意即妙にチームワークを発揮することが困難になります。

仮面の付替えを促しているのは、自我ではなく「あいだ」です。「あいだ」においては、自己は環境(他者、時、場合を含む)の関数であると同時に、環境は自己の関数です。

そして、その「あいだ」をよりよくするのが個性の働きであると言いたいのです。「あいだ」が善くなるということは、その構成員である自己も他者も、その関係としての社会も善くなるため、自己の個性の発揮と他者や社会の個性の発揮とを切り離すことができません。

一般的な個性は仮面を脱いだ素面についての性質や性格のことでもありますが、ここで言う個性は、仮面をつけ、自我を正しく否定することで際立つため、一般的な個性と180度も異なることになるのです。

見の目と観の目

※補足記事:「見る」と「観る」

観の目が「あいだ」を捉える人間固有の目であるのに対して、見えたものを認識する目を宮本武蔵は五輪書で見(けん)の目と呼んでいます。

見の目は科学の目であり、その最大の特徴は「比較」をすることにあります。比較するためには、何か1つの評価軸が必要です。ある評価軸を採用することは、他の評価軸を否定することでもあるので、見えたものは1つの側面に過ぎず、全体像を捉えることが困難になります。

真剣による勝負の中では、右を見たら左が見えず、左を見たら右が見えないようでは、命取りになりかねないため、宮本武蔵は兵法の実践において、「見の目よわく、観の目つよく」と言っています。

観の目は見えたものとものと「あいだ」を観る目です。見の目は現れたものを見ますが、その意味や価値を捉えるのは観の目です。私たち人間は何か生きる意味というものがあって、それで生きているのではなく、反対に生きることでその意味づけを行っています。

その「あいだ」を善くする個性は、物事のその意味や価値を見出す働きがあります。つまり、価値を創造するのは個性の働きです。

応用編:もし、個性がなくなったら?

もし、あらゆることが見の目で捉えられるなら?

極端な例にはなりますが、あらゆることを比較によって捉えることができるなら、どういう世界になるでしょうか。

すべて比較によって点数化されるということは、誰しもが目指す理想というものがあるということです。理想の人がいて、理想の家庭があり、理想の生き方があるということになってしまいます。

誰しもがそういう人を目指し、誰しもがそういう家庭や生き方を目指すという世界には個性がありません。60点の人よりも70点の人がよいということになり、一人一人かけがえのないという感じもなくなります。

現実は、そうではありませんね。もし、理想の車というものがあるなら、車メーカーは品質と価格の勝負でしかなく、技術力と圧倒的な生産ラインを有する企業の独り勝ちとなりますが、実際には各社が個性を発揮し、それぞれシェアを得ています。

そもそも理想の車というものを考えることができるでしょうか?安全かつスピード感があって、高級感があり庶民的であるとか、大型かつコンパクトのように矛盾を孕むことになります。

答えの無い問題に対する問いは、「何が正解か?」ではないのです。

10人いれば10人とも正解。あるのは違いだけ。

吞田好文

品質と価格だけの競争は天然資源の乏しい日本には不利です。日本のものづくりには個性が求められています。

もし、個性がなくなってしまったなら?

さて、何を達成しても心が渇く原因が個性の欠如である理由について考えてみたいと思います。

前にも述べたように、生きる意味や価値というものが、差し当たってあるわけではありません。私たちは何か理由があって、それで生きているわけではありませんね。しかし、私たちの個性は、生きることに意味づけをし、価値を見出そうとするのです。

もし、個性が無くなるとどうなるでしょうか。

その生き方も社会の価値観の中で比較され、点数化されることになります。高学歴、高収入、高身長という三高という言葉がありますが、これらはすべて見えたものであり、比較可能です。

社会の価値基準に基づく相対的な幸福の追求に見られる特徴は、「一方を悪いとしなければ、一方を良いとできない(岡潔)」です。

これによって得られるのは、誰かを見下すことによる優越感や、誰かにすごいとか、幸せだと思ってもらえることによる幸福感であると言えます。つまり、自我の承認欲求を満たすために生きているのです。

さて、これで満たされるのでしょうか?

どんなに地位が上がっても、上には上がいます。どんなにお金を稼いでも、名誉を得ても、上を見上げればきりがありません。

さらに、岡潔先生は言います「刺激をだんだん強くしていかなければ、同じ印象を受けない」。承認欲求を満たすことは一時的であるだけでなく、麻薬のように、より強い刺激がないと自己を保つことができません。

強い刺激を要するということは、それを失うことの落ち込みも大きいため、恐怖感が伴います。また、相対的な豊かさの副作用として、嫉妬や妬みといった反発も生じるでしょう。

個性を養うために

この国では、陽徳と陰徳という言葉があります。陽徳は、おおっぴらに人に知られる徳のことであるのに対して、陰徳は人知れず行う功徳を意味します。

しかし、陰徳というのは人に知られたら陰徳でなくなるかと言ったら、そうではありません。陰徳は見の目では見えないため隠れているという意味で「陰」なのであって、その「あいだ」を共有している人たちには、それが陰徳であり、また個性でもあるということがわかるのです。

陽徳と陰徳、何が違うのか。それは、見返りを求めるか求めないかの違いです。私たちは「あいだ」を生きているのであるから、誰かのために生きることと、自分のために生きることとは切り離すことができません。

そうは言っても、人間は一人では弱いもので、すぐに変わることなどできません。それにはそれ相応の教育と環境が必要です。その教育と環境づくりに私は少しでも貢献したいと思って、哲学的な活動を行っているのです。

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