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「見る」と「観る」

宮本武蔵の五輪書では、「見(けん)の目」と「観(かん)の目」の2つが登場します。哲学的には、「見る」を認識、「観る」を自覚といいますが、日本のものづくりには、見観の両目を養うことが大切です。

ここでは「見る」と「観る」について、哲学的な用語をなるべく避けて、その違いについて述べたいと思います。

「見る」

「見る」とは、「自我の目」、あるいは「比較の目」でものをとらえることを言います。科学の「科」は「わける」という意味がありますが、比較をしたり数値化するためには、それらを推し量るための物差しが必要です。

「AさんとBさんとを比較せよ」と言われても、「何を?」となりますね。比較のためには、長さや重さ、成績とか、何か1つだけ尺度が必要です。ですから、比較の結果、見えたものはほんの1つの側面にしか過ぎないのです。

この「見の目」は過去の分析には大変重要な役割を果たしますが、一生で一回きりのいま・ここでは、右を向けば左が見えず、左を向けば右が見えないように、その全体像をとらえることができません。

観見二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く観、ちかき所を遠く観る事、兵法の専(せん)也。

改)宮本武蔵「五輪書」水之巻

真剣勝負の場では、見の目を弱くし、観の目を強めよ、とのことですが、ものづくりにおいても同様に、前例のない今この場面において事故を予見したり、先見性を発揮するためには、自己の主観や科学的な客観視を超えた観点が大切です。

また、自分と他者とを分けてものをとらえる見の目は、ともすれば、相手に寄り添うという視点が欠如し、自分さえよければよいということにもなりかねません。

「観る」

「観る」とは、自分の外に何かをとらえるのではなく、間合いを取る中で、他者は自己のように、自己は他者のように観えるのです。それが、「遠き所を近く観、ちかき所を遠く観る(宮本武蔵)」ということです。

「観える」というのは、そう思えて仕方がないということであって、意識してなせることではないのです。

誰かが困っていたら、あたかも自分のように思い、何とかしたいとアイディアが生まれる。困っているのは自分だけでなく、社会の人たちも同じだと気付くことで、世に必要とされる形となる。

そのようにして、ものづくりは新たなアイディアを形にするのであって、自他を区別するような分別や知識だけで行うのではありません。そのやり方の実際によって結果も変わってくるということです。

「観の目つよく、見の目よはく(宮本武蔵)」するためには、間合いを取る身体を研ぎ澄ます必要があり、「工夫・鍛錬有るべき事(宮本武蔵)」なのです。

大学教育の現場で

「教員は学生よりも偉い」というのは、その立っているところが高いのであって、その人自身が高いかどうかは別の観点です。比較は「見の目」、尊敬する後輩がいるというのは「観の目」です。

観の目が育つと、自他を分けないことにより、他者の経験も自己の経験のように思うので、同じ1年を過ごしても格段に多くの経験を得ることができます。

また、自己を他者のように観ることで、自己の改善点に気づくこともできます。プレーヤーでありながら、マネージメントもする立場なのです。

このように、大学は最先端(知識)を教えるところよりも、最先端を生み出す人材を育む場所でありたいと願っています。

小川雅

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