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ウルトラマリンの憂いの中で〈ショートストーリー〉


赤くて熟れた唇が目の前にある。

漆黒の闇であるあたしは、その赤さに身悶えする。


「あなたは漆黒ではなく群青よ」と赤い唇は言う。


目の前にはトーストの上に乗った目玉焼き。

最高の加減で焼かれた黄身は、唇に負けないほど濃厚。


赤い唇から吐かれるセブンスターの煙。

煙は漂って、夢の中みたいな霞になる。


喫茶店の中は薄暗くて煙たいのに、
唇の赤さや目玉焼きの白と黄色のコントラストは
なぜかはっきり見える。


色彩を見つけるのは久しぶり。

せかいはこんなに美しかったの?


あの日から2日間、
あたしの世界は暗くて重い色に覆われていた。



「とりあえずこれ食べたら?あなた人間の気配があまりないから。」



赤い唇の女は、トーストの目玉焼きのせの皿をあたしのほうにすっと押してきた。

断る気にも、手を伸ばす気にもならないあたしは、
目玉焼きのてらてらした黄身を見つめながら、
倦怠感に沈んだ2日間を思い出していた。

食す欲の喪失は、色の喪失で、
そしてそれは生きる欲の喪失だと知った2日間。




「ところで。群青色のあなたは何が知りたいの?」




色彩と気配だけを捉えているあたしの眼。

ぐっと眉間を寄せて赤い唇の持ち主を見た。

ベリーショートの髪はよくみると金髪ではなく、

ミルクティーみたいな色で、

左目の下にほくろがあり、

それがアンバランスで危うい雰囲気を出していた。



大きくはないがくっきりとした、

濃くて長い睫毛に縁取られているその目は、

逸らしたいような見ていたいような葛藤で、

心臓がむずむずする。




今日ここに来たワケを赤い唇に説明しよう。

そう決めて唾をごくりと飲み込んだ瞬間、

いつものアレがあたしを覆ってきた。



「本当のことを言う瞬間」の直前で、

いつもあたしは世界から目を背ける。

その一瞬を超えた先には彩に覆われた世界が見えるのに。

「直前」にさしかかると、 

地面が崩れ落ちる恐怖で拒絶のドアを閉めてしまう。

そしてまた元のこちら側にいたまま。



でも。

もう嫌なんだ。

こんなに闇だらけのせかいはもう嫌なんだ。







「歌が…歌えなくなってしまったんです。
歌は唯一の大切なものなのに。」






言葉にしたら心がぶしゃっと破裂して涙で視界がぐにゃぐにゃになった。

ぐっと目を閉じて涙を出し切り、彼女を見ると、
彼女は目だけで微笑んでタバコの火を丁寧に消しながら言った。



「そう。それでこんなとこまで来たのね。」





1年前の2020年8月24日。

抜けるようなコバルトブルーの空に、

おっきな入道雲がデンと浮かんでいた日。


あたしは歌が歌えなくなった。






声が出なくなったわけじゃない。

ちゃんとしゃべれる。

ただ、歌を歌おうとすると声が出なくなる。

誰かがあたしの喉を両手で締めてる。

歌はあたしにとって唯一のものだったのに。

この世とあたしの体を結ぶ唯一のもの。


でもあたしは歌手なんかじゃないし、

とてもプロを目指したりはできないスキルと年齢と容姿だ。

ただ2年前、25歳の時にたまたまバンドを組んで、

たまたま歌うことになっただけ。

でもそれ以来あたしにとっての唯一のものになった。



月を見上げると「帰りたい」と思ったり、

猫をみると「戻りたい」と思ったり、

生きることへの執着が少なく、

命を前向きに楽しめなかったあたしを、

歌はこのせかいに気持ちよく縛りつけた。

猛烈に歌って、猛烈に音楽を貪った。




だけど。

歌を失った。

歌を失って、バンド活動も失った。




仲間は折り目正しく慰めてくれたし、
ゆっくり休んで戻ってくればいい、
待っている、というようなことを言ってくれた。

あたしも気分転換でもすればまた歌えるはずだ、
だって声は出るのだから、と考えていた。


でもそれから1年も経ってしまった。
歌えないまま。


そして2日前、あたしのせかいは色を失った。


だから、ここに来た。





「多分あなたはね。

人間を美化してるんだと思う。

もしくは卑下。」



赤い唇は、またセブンスターとライターを手に取りながら言う。


彼女の話す言葉の意味がわからなくて、
彼女の手を見つめていると、
ゾッとするくらい美しい炎がライターから出て、
あたしは一瞬のけぞった。


「美化でも卑下でもないちょうどまんなかの小さな点の中に、あなたの見える世界を90度回転させたせかいが広がっているの。

そこは今あなたが見ている縦に並んだせかいではなく、
すべてが横に並んだせかいなの。

それが真実のせかい。

失ったら得られるし、得たらさらに得られるから、
豊かさがぐっしゃり積み重なるばかり。

そこをあなたの今のせかいにしちゃえばいいのよ。」


タバコの煙と一緒に吐き出されたその言葉たちは、
煙みたいにあたしの体の周りをそっと撫でるばかりで、
ちっとも頭の中に入っていかない。


わかりそうでわからない。
赤い唇が何を言っているのか。
気持ち悪い。


しかもあたしが歌えないことと、
一体どう関係があるんだろう。
攻撃されたわけではないとわかっているのに、
反射的に防御のスイッチが入る。
理性とは別の場所で反撃ののろしが上がって、
思考とは別の場所が言葉を吐かす。



「でもあたしは歌を失った。何も得てない。」



赤い唇が何を言っているかわからなくて、
あたしが何を言いたいのかもわからない。

わからないことをわからないまま話す心許なさは、
突然の停電に遭った時みたいだ。



赤い唇は突然満面の笑みを浮かべて言った。




「歌を失った経験を得てるじゃない。
あなたが縦のせかいにいるから、
こんな簡単なことを見逃すの。」




それまですがるような気持ちで彼女を見ていたのに、
笑顔にむかつきすぎて心臓が爆発しそうだ。


っていうか、縦のせかいって何なわけ?


わからないけど聞くことができない。
嘲笑されることは、あたしが許せないこと。



赤い唇は顔だけ動かしてタバコの煙を吐きながら、
まっすぐあたしを見ているようだが、
あたしはその圧に耐えられなくて目を伏せたまま。


最初は恍惚としていた彼女のつけている甘ったるい香水は、もはや不快の象徴だ。




「横のせかいにいるとね、
縦のせかいにいる人が考えてることがなぜか丸見えなの。こっちが恥ずかしくなるくらいに。」




その瞬間、不快感という泥が胃の奥からせり上がってきた。

あたしはもう彼女の言葉を浴びたくない。

吐かれる言葉を止めたくて、
ようやく彼女の顔を見ると、
なぜか赤い唇は悲しみの形をしていた。



「だから。
あなたがクソみたいなプライドを守るために、
縦の世界ってなに?って質問できないこととか、

歌えるようになる正解がどこかにあると思っていて、
自分で結論づける責任を回避したまま、
私に正解をちょうだいって思ってることとか、

正解と思われる何かを得て、それでも歌えなかった場合、私を嘘つき呼ばわりするんだとか、

そんなのが全部透けてみえちゃうの。」





言葉を制止する気力が消えていく。
もう聞くしかないんだろう。
不快すぎて嘔吐するとしても聞くことになっているんだろう。
あたしは今日、聞くために来たのだ。
あたしの体の奥にある、あたしが探し出せない言葉たちを。



悲しみの形をしたまま赤い唇は、
甘酸っぱい声で言葉を出し続ける。




「今話している私が、あなたには見込みがあるわねって言ってくれるんじゃないか。

あなたには才能がある!あなたの歌は素晴らしい!って言ってくれる人が何処かにいるんじゃないか。

そう思ってるくせに、わたしなんて、と謙虚なふりをする。恥ずかしいから。
そうじゃない自分だと本当は知っているから。
でも特別であると信じたい。

だから、
誰か言って!私のことを素晴らしいと言って!
って探してる。

自分の聞きたい言葉を言ってくれる人を探してる。
だから他人をじっとみてる。

欲しくて欲しくて仕方ない言葉たちを取り逃がすまいと、他人ばかり見てる。

そんな人、愛されるわけないじゃない。」




受け止めようと心の器を開いたのに、
不必要な展開に、カッと頭に血が昇る。



「あたしは愛されるかどうかなんて聞いてない。
歌が歌えるようになりたいの。」




赤い唇はまだ悲しい形のままだ。


  


「この世の全ては響きでできているの。

見えたりさわれたりできる響き、
もしくは見えないしさわれない響き。
全部が響きなの。

音楽は目に見えなしさわれないものだけど、
どうせ響きの話なんだから、
あなたの心の話の根っこは歌につながっている。
歌だけじゃない。
歌以外のすべてのものにもつながっているの。



実は気づいているんでしょ?
あなたがなぜ仲間に認められないのか。」





もう痛みすぎて心の感覚は麻痺している。



あたしは、バンドのみんなを思い出す。
あたしを捨てたみんな。
あたしを不必要だと思ってるみんな。



2年前ドラムのクロサワくんからボーカルを頼まれた時、あたしは嬉しくてたまらなかった。
誰かに何かを押し付けられたことはあっても
何かを頼まれたことのないあたしは、
世界が輝いて見えるくらい歓喜した。

歌は好きだったし、カラオケに行くことも好きだった。
学生の頃バンドを組んでる人達を見て単純に羨ましかったし、同時に不思議でもあった。

一体全体どんな展開があってバンドを組むことになったのか、ドラマみたいなきっかけや流れが存在してるのだろうかと。

あたしの周りにはそんなキラキラしたストーリーは目をこらしても見つからず、ドラマのキャストとして選ばれたものだけが得られる経験なのだ、と思っていた。


だから嬉しかった。


バンドメンバーになれること。
バンドで歌えること。
それを求められて、お願いされたこと。


だから。
努力した。歌って歌って歌った。
みんなにもっと認めてほしくて、もっと必要とされたくて。
そうしないと、ドラマのキャストになれたような、
このキラキラした体験を失うことになると思ったから。


と同時に、こんなに努力していること、認められて必要とされたいことは知られたくなかった。
お願いされてなんとなくこなすあたしでいたかった。
ムキになるのはダサいから、自然体のふりをした。
なんか少しずつうまくなっている人になりたかったし、
そうでありたかったから。


でも仲間はあまり褒めてくれなかった。
みんな自分の演奏に夢中で、楽しそうで、
あたしの歌に注目なんてしていなかった。
頼まれて歌っているのにどういうことなんだと憤慨した。


だからダメなんだと思った。
あたしの歌はダメなんだと思った。


こんなんじゃダメだと努力し続けた結果、
歌を失い、バンドを失い、色を失った。




楽しそうだったバンドのみんなの姿が
胸の痛みと一緒に脳内に浮かぶ。
それはあたしの苦しみそのものだった。
その時ふと、赤い唇のさっきの質問の答えが浮かんだ。


赤い唇を見ると、あたしの答えをじっと待っているようだった。あたしが仲間に認められていない理由を。




  


「あたしが…音楽を愛してないからだと思う。」






赤い唇は、目だけ微笑んだ。


「自分の欠落を埋めるために行動をすると、
欠落は増幅する。

欠落を埋めるために自分の何かを変えようとすると、
その何かを根こそぎ失う。

人生はいつだって、欠けたままの自分を好きになるためにあるんだから。」


あたしの胸の中を水が流れて濾過されていくようだ。
さらさらと流れて不純物が掠め取られていく。



なんとなく目を閉じて、
1年前のあたしを今のあたしが眺める。
歌を失う2日前のあの時。


喉にエフェクターをつけたいと思った。


ギターみたいに喉にエフェクターをつけて、
あたしの声を丸ごとひずませてしまいたいと思った。



それがみんながあたしに求めてる歌ではないか。
そうすればみんなが認めてくれるのではないか。

あたしの喉から出る歌声は透き通りすぎている気がする。
特徴がない平坦な喉に嫌気がさした。

そう思って半ばやけっぱちに願った。

それが。

赤い唇の言った「自分の何かを変えようとすると根こそぎ失う」というものかもしれない。





だとしたら…





「なんかもう。大丈夫な気がします。」


顔を上げて赤い唇に言うと、突然視野が明るく広くなったように感じた。
何も得ていないし、歌えるとも思えないけど、
たしかに何かが大丈夫だ。
 

彼女の全身がやっと見える。
インパクトしかなかった赤い唇は、
実はたいして大きくもなく濃くもなかった。
あたしがただ、彼女の唇しか見えなかっただけだったんだ。



 
彼女はまたタバコを指の間で弄びながら微笑む。


「人間ってね、自分がどうやったら自分を信じられるか、どうやったら決められるかだけなの。

だから、あなたが歌えない理由をあなたは何だと思ってるかだけ考えれば解決する。」



あたしはうなずく。
理屈はわからないが、なぜだか意味がわかる。

彼女もなんだかホッとしている。
やわらかくて陽だまりみたいな顔つきだ。



 

「音楽に悩む子たちが私のところにたくさんくるけど、

私が言いたいことはひとつしかない。

承認される手段として音楽を利用しているから問題が起きるの。

本当に音楽を愛してる人には圧倒されちゃうし、
始まりが違うから理解し合えないのよ。

せめて、利用してることぐらいは自覚しないとね。


自分しか愛せないのに他人を愛してると勘違いしている人と、自分しか愛せないとわかっている人は、同じ音を出しても響きに天と地ほどの差があるんだから。」




あたしは彼女の言葉を最後まで聞くと立ち上がった。
倦怠感は跡形もなく消えているし、
薄暗いと思っていた喫茶店は、
午後のまあるくて力強い日差しが差し込んでいる。

  

ありがとうございました、と頭を下げて店の入り口までずんずん歩く。
カランコロンカランと鳴る扉を開けて、
赤い唇のほうを振り返ると、
彼女はまだタバコを指に挟みながら、
その手をあたしに向けて振っていた。


ありがとう、赤い唇。
ありがとう、クロサワくん。
と心の中で言うと、喉の奥がギュッと締まって、
また涙が目に集まる。


涙を人差し指でふきながら店の外の階段を降りていると、昨日のクロサワくんの必死な顔を思い出す。
マンガだったら周りに汗のマークが飛び散ってるなと思うほど必死な顔で、赤い唇のことを教えてくれた。


「赤い唇」と呼ばれる女が梅ヶ丘の喫茶店にいる。
その女は表現に悩む人間を救えるらしいんだ、と言って、この喫茶店の住所が書かれた紙を渡してきた。



ヘタクソな字が並んだ紙はあたしの涙腺を刺激した。

だから、半ベソかきながらあたしはクロサワくんに言った。




「でも、手遅れだよ。

昨日バンドには新しいボーカルが入ったじゃん。」




当然の展開だった。
だって1年も歌えないでいるんだから。
だからその連絡をもらった時、不思議と心は静かだった。

でも帰り道にふと空を見ると、
まだ明るいはずの17時半の空は、
真っ暗で落ちてきそうな重い色になっていた。

その後は何を見ても、色彩を感じられず、
どんなごはんも不味そうに見えた。
やけ食いすらできなかった。




一階に着き、建物の外に出ると、
眩しくて目の奥に痛みが走る。
久々に見る青い空。


よかった。色彩は戻った。


彼女の唇の赤さも、目玉焼きの黄色と白も、
幻覚じゃなかった。



路に植えられたツツジの躑躅色を愛おしく感じる。
久々に目に映る、せかいの色彩は切なくて苦しい。
あたしはただ、心に群青色のフィルターをかけてせかいを見ていたんだと気づく。
きっと喉にエフェクターをつけたいと思ったあの日から、少しずつ群青の青みを増やし続けていたんだ。

なぜなら何もかもから目を逸らしたかったから。
1番目を逸らしたかったのは、カッコ悪くて、恥ずかしくて、ダサくて、何の足しにもならない、あたしの承認欲求。


その承認欲求はあたしの歌声までも否定した。




でもいいんだ。




なんだか全部バカみたいで情けなくて、
でもなんだか愛おしく思えて、
上を見上げて涙を流したままにした。

周りの通行人なんて関係ない。




「でもいいんだ。」

つぶやいて大股で梅ヶ丘の駅に向かってガシガシ歩き始める。




みんなに正直に話そう。
あたしはみんなに認められたくてたくさん努力していたこと、みんなとバンドがしたいのにうまく表現できなかったこと。
カッコつけて自然体なフリをしていたこと。
そしてそのせいで歌えなくなってしまったこと。
これからも歌えないかもしれないけど、それでも待っていてほしいこと。

断られたり受け入れてもらえなかったら…



「でもいいんだ。」


つぶやきながら、どんどん早足になる。



もしかしたら。



みんなは本当に待っていたのかもしれない。

また歌えるようになったあたしではなく、
自分の中心から世界を見れるあたしを。

情けなくてカッコ悪いあたしがそのままで歌えるようになることを…


後悔の苦みが目から溢れる。


うずくまってしまいたいくらいに心の痛みが体中に響いている。



「でもいいんだ。」

今までのあたしを踏みつけるようにずんずん歩く。





あたしはまだ、喉にエフェクターをつけたいし、
誰かのせいにしていたい。
でも空は青い。



おわり


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