<作品01>絵描き 近藤康平の手(2019)
こんどう・こうへい 職業:絵描き、ライブペインティングパフォーマー
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薄暗いライブハウスに浮かび上がる、真っ白なキャンバス。ミュージシャンがメロディーを奏で始めると、キャンバスの前でうつむいていた一人の男が、突然何かを思い立ったように、堰を切ったようにアクリル絵の具の塊を手ですくい始める。筆ではなく、自らのその手で。ライブペインティングの幕が開く瞬間だ。
彼の名は、近藤康平。木製のパネルに筆を使って描き込む絵画の創作の一方、音楽からインスピレーションを受け即興で絵を描き上げる“ライブペインティングパフォーマー”として多くのミュージシャンと共演し、支持されている。作品の評判は海を越え、この春には台湾で個展が開催された。
1曲また1曲と音楽が奏でられるたびに、彼の手からは新しい色が次々と現れる。気づけば、真っ白だったはずのキャンバスには大空が広がり、その下で鳥たちが幾羽も羽ばたいている。まるで、指先から無限に色彩が湧き出してくるかのようだ。
しかし、どんな色彩を放とうとも、キャンバスのどこかに必ず、拠りどころのようなあたたかさ、やわらかさがある。それが彼のアートの魅力のひとつである。
でも、なぜ彼は、筆ではなく手でライブペインティングに挑むのだろう。
気がついたら手で塗り始めていた
きっかけは、友人のミュージシャンからの誘いだったという。
「世の中のいわゆるライブペインティングは、音楽がステージで演奏される間、絵は会場の隅っこで音楽と関係なく描かれていて、ライブが終わる頃に絵も出来上がっているというイメージだと思います。でも、それでは一緒にやっている意味がない。やるならお互いの表現を反映しあったものにしようという話になって、僕も一緒にステージに上がってお客さんから見える位置でコラボすることになったんです。」
初めてのライブペインティング当日。キャンバスや絵の具と共に、彼は当然のように筆を用意した。音の波動をダイレクトに感じる距離で演奏がスタートし、彼は筆を取る。しかしすぐに、感覚と筆先の“ズレ”を感じ始めたという。
「音楽から得る発想に筆が追いついていかなかったんです。絵って普通は何時間もかけて描くものだけれど、ライブの場合は必然的に40分ぐらいで描くという時間的な制限が生まれるし、音楽に即興的に反応しなければいけないという制限もある。筆を持ち換えたりしていると、その制限に追いつけないんです。
でも手なら、絵の具を服で拭き取ってすぐ次の色に移れる。原始的だけれど直感的なところに魅力を感じて、最初のライブの途中から、もう自然に手で塗り始めていました。
一緒にステージに上がるからにはパフォーマンスとしてもカッコよくなければいけない、ということを考えても、やっぱり手が一番ですね。音に直接反応している、その“身体性”を見せられますから。」
絵を学ばなかったからこそ自分の絵がある
彼が絵一本で生活をするようになったのは、実は比較的最近のことだ。
茨城県取手市。利根川沿いの土手や雑木林を遊び場にして育った。鳥取大学では森林学を学んで大学院まで進み、そのまま研究を続けることも考えたが、森に入った時の気持ちよさは研究では表せないと感じて、卒業後は東京で絵本屋の店員や絵本の出版社で編集の仕事をしながら絵を描くようになった。でも、自らがその道一本で生きていくことになろうとは、まだ思いもしなかった。
「美大に通っていたわけでもなく、絵描きの友達もいなかったので、すべて自己流で始めました。とりあえず画材屋さんに行って絵の具を買って、描いてみて、次はこんな絵にしようかと考えて、また次の画材を買いに行く、その繰り返し。最初は木のパネルにジェッソという下地材を塗ることを知らなくて、木に直接描いてました。どうして発色が悪いんだろうと思っていた時にジェッソというものを見つけて、“これが必要だったんだ”って(笑)。あとは、誰かの展覧会に行って、作家さんとそのお友達が下地処理の話をしているのに聞き耳を立てて“なるほど”と思って真似したり。
美術系の大学に行ったら材料学から勉強するんだろうけど、僕は独学だからこそ自由な描き方ができる。一長一短だけれど、学んでいたら作風も違っていたかもしれないですね。」
絵描きへの決意と母の死が重なった38歳
ライブペインティングという居場所を見つけたことで、生活の比重は徐々に描くことにシフトしていった。そして、やがて転機を迎える。
「ライブって何ヶ月も前にスケジュールが決まるし、ツアーとなると長期間拘束されてしまう。一方、編集者という仕事は印刷トラブルがあったりすると絶対に駆け付けなければいけない。始めは両立できていたものの、ライブペインティングがかなり忙しくなって、だんだん仕事との帳尻がつかなくなっていきました。」
2013年、38歳にして、彼は出版社を辞めて本格的に絵の世界へ飛び込む。生来の楽天家だというその性格もあって、選んだ道への不安はなかったが、決断からおよそ半年後、母が亡くなった。自らの転身よりもそのことのほうが大きな出来事だった。
「会社を辞めた時、母さんは不安だったろうな。今ぐらいしっかりやってるぞっていうところを見せてあげたかった。かわいそうなことをしちゃったなと思いますね。」
子供の頃によく遊んだ実家近くの自然や利根川の先に広がる地平線。それが自分の絵の原風景だと彼は言う。母が亡くなった後、彼は実家に戻る決心をした。生前母が自室として使っていた、やわらかい日差しが差し込む六畳間。今はそこが彼のアトリエだ。
みんなの視線や想いを背中で感じ手から放っている
まるで一編の映画を観るように曲ごとにそのシーンを変えながら、彼のライブペインティングは進んでゆく。一見出来上がったかのように見える美しい絵も、新しい曲が奏でられると、彼自身の手のひらで白く塗りこめられ、また次のシーンが描かれてゆく。
「もったいない!って言われる時もあるんだけど、そういう時ほど僕の中の《リトル康平》が“攻めろ”と言ってくる(笑)。お客さんの視線やミュージシャンの想いみたいなものを背中いっぱいに感じて、それを手から放っているイメージです。
完成形だけじゃなく、完成に至るまでの過程に対してもお金を払ってもらっているのがライブペインティングだと僕は思っています。だから、どんどん描いてどんどん消す。だからどんどん手も汚れる。それが醍醐味じゃないかな。」
今、彼は父との2人暮らし。2人分の食事もその手でできる限り作りながら、創作活動を続けている。今年は画集の出版予定もあるというが、その動機のひとつを「父さんは本の仕事をしていたから、見せてあげたくて」と言う。
両親について語る時、その眼はとりわけ優しさにあふれる。彼の手から生まれる絵があたたかく、やわらかく見えるのは、彼のそんな心根のあらわれなのかもしれない。
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たかはしあきひろ…福島県郡山市生。ライター/グラフィックデザイナー。雑誌、新聞、WEBメディア等に寄稿。CDライナーノーツ執筆200以上。朝日新聞デジタル&M「私の一枚」担当。グラフィックデザイナーとしてはCDジャケット、ロゴ、企業パンフなどを手がける。マデニヤル(株)代表取締役