見出し画像

「BAR HOPE」

⑥ ライターズ・ティアーズ〜


 あまりお客さんのいない日曜の夜に、龍治さんは時々ノートパソコンを抱えてやって来る。
 たとえ客が龍治さん一人だとしても、「パソコン開いてもいいですか?」と律儀に了承を得てからいつも作業を始める。
 初めの二杯ほどは珈琲だけど、そこからはスコッチやバーボンをロックで飲みつつ、キーボードの小気味いいタッチ音を店内に響かせている。
 もちろん僕からはパソコンの画面が見えないので龍治さんが何をしているのかは分からなかったが、龍治さんの選ぶウィスキーの銘柄を見ていると、どことなく作家や小説家のような趣を感じられた。

 一度パソコンから顔を上げた龍治さんが、とても晴れやかな表情をしていることがあった。
 普段はあまり声をかけない僕も満足そうな龍治さんの表情に、「お疲れ様です」と思わず言ってしまった。
 龍治さんは僕の一言が自身の表情からきたものだとすぐに悟って、「どうも、ありがとう…」と、とても照れくさそうに笑った。
 その夜はとても気分が良かったのか、龍治さんはウィスキーを飲みながら今までの人生や自身のことを、優しく僕に語ってくれた。

「僕はね、こうして偉そうにBARで文章なんて打ち込んではいるが小説家でも何でもないんだよ。ただの定年前の会社員さ。
 それでも昔から物語なんかをつくるのが大好きでね、こうして憧れの作家達が愛したウィスキーを飲みながら、真似事のような行為に浸っているだけなんだよ」

「でも、さっき僕が見た龍治さんの表情は決して真似事なんかじゃなかったですよ。龍治さんの想いや苦悩がちゃんとあるから、その表情が僕の心に触れたんだと思います」

 龍治さんは何も言わずウィスキーを飲んだ。
 相変わらず照れくさそうに、それでも恥ずかしさのない龍治さんの表情には、創作者としての責任だって感じられた。

「本当はね、僕だって人の心に届くような作品が作れたらって思っているんだ。でも、きっとそれは僕には無理だから。
 子供の頃から僕は運動も出来なかったし、女の子にモテることもなかった。まぁ勉強はそこそこ出来たけど、本当に心を許せる親友を持ったこともないし、胸を八つ裂きにされるほどの大恋愛だってしたことがないんだ。
 煮えたぎるような憎しみや怒りも、自分が恐ろしくなるほどの冷酷な一面を感じたこともない。
 僕の憧れた作家達が有していた資質みたいなものを、僕は何一つとして持ち合わせていないんじゃないかって。
 苦しいのがさ、それは努力ではどうしようもないってことなんだよ。風呂のお湯張りスイッチみたいに押せばどうにかなる問題じゃない。誰に言われなくとも僕の内側から湧き出て来なければね」

 僕はそんな龍治さんの書いたものを読んでみたいと思ったけど、その言葉がとても陳腐に漂う気がして言えなかった。

「それでもさ、今もこうして書くことを止められないんだな。誰の目に留まることも、誰に喜ばれることもなくても、なぜか僕はこうして書き続けてきたんだ。
 もしかしていつか日の目を見るんじゃないかなんて断じて思っちゃいないよ。ただね、誰かじゃなくて、せめて自分の納得できる作品を作りたいんだと思う。
 僕が今まで生きて来た人生を振り返ると、なんだかそのうちに全部がなかったことになって、いつかは消えていくんじゃないかと思うんだ。
 駄作だって構わないさ、そんな駄作を書き上げたっていう意義や証を僕の人生にも残したいんだよ」

「一杯、僕からご馳走させていただいてもかまいませんか?」

「えっ、こちらこそいいのかい?」

 僕はバックバーに並ぶボトルの中から一本を取り出して、龍治さんの前に置いた。

「これは、ライターズ・ティアーズというアイリッシュウィスキーです。
 アイリッシュウィスキーは、スコッチウィスキーとその起源を争うほどの長い歴史を持つウィスキーで、1172年に起きたイングランドのアイルランド侵攻で一時は衰退しますが、アイルランドこそがウィスキー発祥の地と呼べれることもあるぐらいなんです。
 ライターズ・ティアーズというのは直訳すると<作家の涙>で、19世紀から20世紀初頭にアイルランドには多くの文豪が誕生しました。
 文豪達は仕事に疲れ、もがき苦しむんでは夜のBARに訪れウィスキーを飲み、その苦悩によって流される作家の涙はウィスキーで出来ていると言われていた程です。
 そんな文豪達に敬意を込めて、アイルランドの伝統的なポットスチル製法で蒸留されたこのウィスキーに、ライターズ・ティアーズという名が付けられたんです」

 テイスティンググラスに注いだライターズ・ティアーズを、龍治さんはゆっくりと口に運んだ。

「バニラと青リンゴのような果実の甘みを感じられると思います」

「本当だね、くせがなくすっきりとしているけど、深い甘みを感じられる」

「このウィスキーはきっと龍治さんに似合うと思ったんです。
 僕に話をしてくれている龍治さんを見ていたら、19世紀のアイルランドのBARカウンターにもきっと龍治さんのような人がいた気がして。
 プロや、それを志す者や、そんな欲を持たない者であっても、書き続けている限りそこにはそれぞれの苦悩が絶対にあって、それは何かと比べられるようなものではないと思うんです。
 僕には作家の資質がどういったものかは分からないけど、苦悩やそれ以外に抱える感情を表現し続けることの他に、必要なものなんて無い気がするんです。
 このウィスキーが作家の涙で作られているというのなら、その中には龍治さんの苦悩や涙もきっと含まれていると思うんです」

「そんな風に言われると、何だが自分の書いたものを少しだけ誰かに読んでもらいたい気になってしまうよ」

「いつか龍治さんが納得のいく作品ができたら、僕にも読ませて下さい」

  龍治さんはまた照れくさそうに笑って頷いた。
 龍治さんの前に置かれたライターズ・ティアーズのボトルは、まるで龍治さんに寄り添うように優しく琥珀色の光を帯びていた。

 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?