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「BARカウンターの花」


 小さなカウンターだけのBARをやっている。知り合いが飲みに来ればすぐに席は埋まってしまうし、雑居ビルの三階にあるうえ大きな看板も出していないので、初見のお客さんがふらっと入ってくることなど月に一回ほどしかない。たまに初見のお客さんが入ってくると、「えっ?なんか知らん人が入って来たぞ」というBARのマスターとしてはあるまじき驚いた表情を浮かべてしまう。僕のそんな態度に困惑したお客さんも、カラオケ屋でトイレの帰りに間違って別の部屋を開けてしまった時のようなリアクションになってしまう。一度開けた扉をそっと閉めそうになったお客さんに僕が慌てて「いらっしゃいませ!」と声をかけると、閉まりかけた扉がもう一度ゆっくりと開き、「ですよねぇ・・」という表情でお客さんが入って来る。
 こんなめちゃくちゃな店なのだが、それでもお客さんには特別な時間を過ごして貰いたいという想いはあり、店内の香りや照明の光量、BGMに流すレコードの選曲などに気を遣い、カウンターに飾る花は季節に合わせてこまめに変えるようにしている。

 店に向かう途中にいつも決まった花屋に行くのだが、通っているうちに顔を覚えてもらい、「いつもありがとうございます!」と気さくに店員さんが声をかけてくれるようになった。その日も桜の枝を見ているといつもの店員さんが「お取りしますのでまた言って下さい」と声をかけてくれ、僕はまだ蕾の状態の桜を枝を二本選んで取ってもらった。蕾の状態のものを選ぶのには理由があり、まず単純に長持ちする。枝物以外の花を選ぶ時などは、綺麗に咲いていても咲いてからどれくらい経ったのか知識のない僕にはわからないので、店に飾ってから二日ほどで枯れてしまうこともある。なので蕾の状態で飾ることで長持ちするし、桜などであればお客さんと一緒に徐々に咲いていく姿を楽しむことが出来て、ちょっとしたお花見気分を味わえる。
 しかし店員さんは僕の選んだ二本の桜の枝を取ると、「これまだ蕾の状態なので一本千百円ですけど百円ずつ引いておきますね」と笑顔でサービスしてくれた。あえて蕾の状態を選んでいた僕は少し申し訳ない気がしながらも、ありがとうございますとお礼を言った。そのまま僕を先導してレジに向かう途中で店員さんは他のお客さんに声をかけられ、これお願いしますとレジカウンター内の店員に桜を渡すと、値引きの件を伝えることなくすぐに次のお客さんの接客に向かった。桜を受け取った店員さんは「桜の枝二本で二千二百円になります」と笑顔で言った。

 さっきまで申し訳ないと思っていた僕だったが、何だか急に損した気分になって来た。そもそも二千二百円を支払うつもりだったのだから決して損をした訳ではないのだが、百円ずつ引いておきますねと言われた後なので、二百円多く支払わされている気分になってしまった。だからと言って「いやさっきの店員さん蕾なんで百円ずつ引いときますねって言ってましたよ!」と好意で言ってくれたサービスに対して声を荒げるのはみっともない。一旦後ろを振り返ってみるが、先ほどの店員さんはまだ接客中でこちらの状況に気づいてはいない。正直こんなことになるのなら、最初からサービスしますなんて言われない方が良かったと思ってしまった。
 いつも払っている袋代の五円を告げられると、ふざけんなよこっちは二百円多く払ってんねんという怒りが少しだけ湧いた。
 すると先ほどの店員さんが接客からもどって来て、「お客様、この枝長いので袋に入れて持つよりも、根元の方を手で持っていただいた方が歩きやすいと思います」と、また優しく声をかけてくれた。僕のことを考えこんなにも優しくしてくれる店員さんに、自分はなんとせこく卑しい考えを抱いていたのだろう反省した。店員さんは「いつもありがとうございます!」と満面の笑顔で僕を見送ってくれた。

 その日は一日雨だったが、花屋を出た僕はなんだか清々しくて雨空に向かって勢いよく傘を開いた。開いたが、袋に入れず枝の根元を手に持っているせいで桜の枝自体がその分高く上がってしまい、傘に引っかかて上手くさすことが出来ない。だからといって桜の枝を斜めや横に向けてしまうと傘からはみ出て雨に打たれてしまう。花屋の方を振り返るが、先ほどお見送りしてくれた店員さんは他のお客さんを接客してこちらの状況に気づいていない。仕方なく僕は桜を持った左の肩をめいいっぱい下げながら、傘を持った右手をめいいっぱい伸ばし桜の枝に被せ歩いた。変な格好でびしょ濡れになって歩きながら、こんなことなら最初からサービスするとも袋に入れない方がいいとも言われない方が良かったとやっぱり思ってしまった。

 


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