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エルヴィス、バズ。ポップを生きる

バズ・ラーマンは事実ではなく真実を語る。

ラーマン監督が好きそうなことはたくさんあるので、何がどうでもいいのかを数える方が楽かもしれない。たとえば「妥当性」「現実み」「批評的価値」、商業主義と呼ばれるか、"Instant Classic"認定されるか、"Serious"と評されるか否か、とかは本当にどうでもいいんだと思う。

つまるところ監督は、時代考証とか、歴史的正確さとか、そういった事実は、「真実」のためなら積極的に犠牲にすべき。と考えている作家のように見える。

たとえばラーマン監督が興味があるのは、親から普通のお見合い相手を紹介され、なんとなーくこの先の人生の道筋も見えて、絶対嫌だってほどでもないけど、なんだかそんな見通しに倦んでいる女の子。そんな彼女が水槽越しに若きレオナルド・ディカプリオと目が合ったとき感じる電撃。

それは飽き飽きするほど長い普通の人生を一瞬に圧縮したようなインスピレーションで、視聴者からすればそんなの持続可能じゃないとわかる。そもそも、この二人はロミオとジュリエットなのだ。

でもそれは客観的事実でしかない。
若い二人にとっての真実は、この出会いは運命で、今夜しかなくて、もう一瞬たりとも待てないということだ。二人の主観的真実によると、今一緒になれなければ世界は終わりだ。Tonight is the nightで、Now or Neverなのだ。
このように真実は主観的で、「いま」の感情に左右される。

映画は時間の芸術と呼ばれる。映画は写真の連続で、写真はもちろん写実性だ。絵画や詩より客観的事実に基づく。
コマ送りで写真を動かすには時間が必要だ。何枚もの写実を、時間という糊でつなげて、視聴者は上映の間、座ってそれを眺める。
現実ではない物語を作る点で、演劇と映画は似ている。演劇には演出が、映画には編集という魔法がある。
でも演劇のリアリティと映画のリアリティは、こういった起源からしてかけ離れている。
舞台ですばらしく見えるものでも、映像に収めてしまえばとたんに陳腐に見えたり。逆に、映画だからこそできる視覚効果や時間の操作は、舞台に輸入できないものも多い。

バズ・ラーマンは舞台的な手法で真実に迫る。そのアイデアは、わりと負け戦っぽく聞こえることもある。映画なのに舞台の方法で語るので、ぱっと見珍妙だったりもする(『ムーラン・ルージュ』劇中の時代設定とか、いまだに謎だ)。

たとえば、流行りのポップソングを演出に使うとする。その曲が、5年後ダサくなる。その場限りの、生の舞台なら構わないけど、それが映画に収められていたら……5年後にその映像を観たら、それはもうダサい曲が流れるシーンになってしまうのでは?

というわけで、ポップカルチャーを扱うときは、後出しが一番安全だ。いま流行っている=まだ評価が固まっていないということなので、今後も価値が残るかは誰にもわからない。しかし、あるていど時が経ち、評価が定まったポップ音楽の挿入歌は飛び道具になる。歌詞の利用はもちろん、その時代の雰囲気も想起できるので、うまく使えば和歌における本歌取りのように多重の意味を盛り込めることになる。

たとえば、ボブ・ディランやビートルズはもちろん、デヴィッド・ボウイのカタログなどはほぼすべてこの「安全枠」に入っていると言える(レオス・カラックス、ウェス・アンダーソンなど、枚挙にいとまなし)。また近年ポップカルチャーの消費が加速し、90年代くらいまでは一気に古典化した趣があるので、『アイアンマン』のAC/DC、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』サントラも安全枠に入ったポップ音楽の活用例ではないか。


バズ・ラーマンはあえてそこらへんを気にしない。大事なのは「いま」で、2022年現在映画館にきた観客に伝われば、あとでかっこ悪くならないか…などはどうでもよいみたいだ。そういう勇気あるミーハーさが「ラーマン節」であり、結果的にものすごく時代に根差したアイコニックな作品(『ムーラン・ルージュ』の劇中歌「レディ・マーマレード」はもはや別個のファンダムを持っている)を生み出してきたと思う。

ポップは難しい。古典の反対であるポップには、意外と安全地帯が無い。いまイケてるものはすぐダサくなり、売れればセルアウト、売れなければ忘れられる。今の時代、売れるとダサいのか、売れてないとダサいのか…といった大衆の評価軸も日々変動する。逆張りに逆張りを重ねても、いま何が生き延びられるのかすらわからないし、10年後に何が残るのかにいたっては誰にも予測不能だ。

でもそうした日々のポップカルチャーの地殻変動から一歩引き、大衆文化の歴史を眺めてみると、うっすら共通点が見えてくる。それは、もうそういうのどうでもよい!という思い切りで作られた作品が、結局大衆文化の歴史に残ることだ。どう売れるか度外視して作られた異形の作品が、結果一番大衆に消費されるコモディティになって、なんなら二番煎じが殺到…というのは世の常だ。

エルヴィスはいまや古典中の古典、四方に影響を与えまくっており、かえって2022年のポップカルチャーには影も形もない。エルヴィスが打ち立てたアイデアは既に大衆に消費され、そこらじゅうに偏在しているので、いま私たちが改めて「エルヴィス・プレスリー」のカタログを聞くことは少ない。

古典になるぞ!みたいな気持ちでポップ音楽を作る人なんていないと思うが、なかでもエルヴィスはどのラジオで流してもらうか、なんてことすら考えていなかったように見える。黒人音楽の影響など、エルヴィスのレガシーは様々な角度から検討されてきたが、彼がアメリカ大衆音楽のブレイクスルーポイントであることは明らかだろう。

挑発的な革新として始まり、中庸をへて陳腐になり、それを刷新して大御所に――存命中だけでも、エルヴィスのキャリアはポップカルチャーの身体代謝の凝縮のようだ。

そして2022年のいま、エルヴィスはだれもが認める伝説でありつつ、古典と言うにはノスタルジーすぎる。模倣されすぎた陳腐さと、独り歩きするイメージを抱えた絶妙にアンビバレンスな存在。これはちょうど、エルヴィスのデビュー当時―大衆が彼の音楽を楽しんでいいか決めかねていた時代―の状況に似ているのじゃないか?

エルヴィスは文句のつけられない金字塔、ではなく、刻一刻と評価が変わるという意味で、永遠にポップ=現代的なアイコンだ。本人は変わらない。彼はやりたいことをやっただけだが、大衆はそれに一喜一憂したり、持て余したり、咀嚼して、消化不良を起こしたり、はてはすくすく育ったり…している。

そんなキング・オブ・ポップはラーマン監督の題材としてふさわしい。ふさわしすぎて、映画『エルヴィス』には他作品ほどのキレがないところもある。移り行く現在の「いま」に接続したい気持ちと、当時の「いま」を生きたエルヴィス自身への愛着が相反してしまう。


バズ・ラーマン監督は、「いま」を演出することで、永遠の真実にアクセスしようとしてきた。

そんなポップ人であるラーマン監督にとって、エルヴィス(とトム・パーカー大佐も)は「同志」なのではないだろうか。彼らは、他のどの映画の登場人物よりも、物語に共犯的だ。

『エルヴィス』の演出は『ロミオ+ジュリエット』ほどに効果的ではないかもしれない。現代化は『華麗なるギャッツビー』ほど革新的ではないかもしれない。夢物語は『ムーラン・ルージュ』ほど突き抜けていないかもしれない。

同時に、本作は2022年のエルヴィス・プレスリー伝記映画としてはこれ以上ないほどの大正解で、ラーマン節の決定打だ。劇場に足を運んだ観客は、エルヴィスとパーカー大佐のめくるめくポップ人生を垣間見る。赤いカーテンの向こう側の「いま」は現在と溶け合う。観客は、彼ら二人とラーマン監督の一味に加わり、共犯者となる。

一度カーテンを開けて、今ではない「いま」を迎え入れたわたしは、すっかり味をしめてしまった。今日から君もラーマン一座だ。

ショー・マスト・ゴー・オン!
ラーマン一座の次の公演が、今から待ちきれない。

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