ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑰
あらすじ
主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
第4章は美濃攻略です。木曽川以外に両者を分ける障害物が無いのに、信長は美濃攻略に7年もかけています。それは何故なのか?周辺各国の情勢や同盟関係など、様々な要因が複雑に関係しているようです。
第4章 美濃攻略
~組織論をふまえて~
第5節 組織文化の経路依存性・近江の情勢
「これは胡蝶様」
半兵衛が襖を開けると、そこには胡蝶が立っていた。
1566年某日、胡蝶が政秀寺に訪れると、竹中半兵衛が先に来ており、沢彦と談笑していた。
「胡蝶、よう来た」
沢彦もご機嫌である。
「半兵衛が来ていると聞きましたので」
と、胡蝶は半兵衛を見た。半兵衛は不思議そうな表情した。
「何用でしょうか。隠棲している浪人に大した事ができるとは思いませんが」
「稲葉山城を落とした者の言う言葉ではありませんね」
胡蝶は笑いながら応えた。
1565年、13代将軍・足利義輝が三好三人衆に殺される。「永禄の変」である。これを受けて、出家していた義輝の弟・覚慶が、軟禁されていた興福寺を脱出し、和田惟正を通じて近江の六角義賢を頼り、野洲郡矢島村(滋賀県守山市)に移り住む。覚慶は、1566年2月に還俗して、足利義秋(のちの義昭)を名乗り、足利将軍家の当主になることを宣言した。
足利義秋は、室町幕府の再興に向けて動いていた。三好勢に対抗するために、相互に敵対している有力大名に講和させ、これらの有力大名の後ろ盾で上洛を目指したのである。上杉輝虎(謙信)・武田信玄(晴信)・北条氏政、六角義賢・浅井長政、そして、斎藤龍興と織田信長である。
書状をもらった信長は、直ぐに了承の返事をする。幕府再興による平和な世を目指すという事が、信長の目的と全く同じだからである。それを受けて、足利義秋は和田惟政を尾張に派遣し、信長に上洛を促していた。
「近江の事を教えて欲しいの」
「近江ですか?」
「そう、北近江にいたのでしょう?」
「はい。世話になりました」
「浅井家はどのような家なの?守護ではなかったわよね」
「浅井家は、国人衆の一つで、北近江を束ねる国人衆の盟主と言ったところです」
「信長様のような位置付けと思って良いかしら」
「家格としては、近いと考えて良いでしょう。守護は京極家ですが、浅井家が仕切っていますから」
「だから、六角義賢殿は、浅井長政殿との縁組を言ってきたのね」
「そんなことが・・・。まあ悪くない話だと思いますよ」
「どうして」
「多分、浅井家の方が強いからです」
「ついこの間まで、六角家の下についていたのでしょう?」
「はい。先ほど、盟主と言いましたが、国人衆が長政様を盛り立てているのです」
「どういうことかしら」
「信長様は、謀反を力で潰して尾張を纏めてきました。長政様は逆です。国人衆が反六角の謀反を起こし、その集団の頭目に担がれたのが長政様です。長政様の父・久政様が六角家にべったりなのを不満に思う者達が、集まって久政様を隠居させ、その集団の頭目として長政様を推したのです」
「だから、初陣から1万人以上が集まったのね」
「はい。しかも、自分たちが推しているのだから、ヤル気が違います。指示などしなくても、それぞれが思う最善で戦の準備をしていますから」
1560年4月、浅井長政が元服(15才)すると、浅井久政を隠居させて家督を取り、六角氏の支配から独立した。8月、六角義賢は浅井方に寝返った高野瀬秀隆への攻撃を開始する。高野瀬秀隆を援護するために浅井長政も出陣する。そして、野良田で六角軍と浅井軍がぶつかった。野良田の戦いである。この時、六角軍は2万5千人、対する浅井軍は1万1千人であった。この戦いは、兵数が半分以下の浅井軍が勝ったのだった。
15才の若者に1万人以上が付き従っただけでも凄いと思うのに、その2倍以上の軍勢を破ったのである。当時、この話を聞いた時、胡蝶には想像もできなかった。ただただ、凄い男が居るという印象だったのである。
「そういうことなのね。ヤル気かぁ。」
竹中半兵衛の説明を聞いて、胡蝶は初めて浅井軍の強さの秘密が分かった気がした。斎藤義龍の目論見が外れた理由でもあった。
「少し補足してやろう」
そう言うと、沢彦(道三)が話をつづける
「北近江は京極氏が守護じゃ。京極家でお家騒動があって力を失い、その中で台頭してきたのが、先々代の浅井亮政じゃ。もともと国人衆の一人に過ぎず、国人一揆の盟主に収まっただけの話よ。
で、1542年にその浅井亮政が死んで、その子・浅井久政が跡を継いだ。丁度、わしが土岐頼芸を追放した年よ。互いにまだ混乱しておったから、人質のつもりで、政略結婚を持ちかけた。そしたら、利害が一致したんじゃろうな、素直に義龍の嫁に近江の方を出してきた。だから斎藤家としても縁がある」
その子が斎藤龍興である。
「それに不思議なことに、長政様と父・久政様の仲は良いのですよ」
半兵衛が続けた。
「そうなの?無理やり隠居させられたのに、恨んでないのね」
「はい。本当に仲は良いです」
実際、浅井長政が妻を離縁した直後の『島文書』により、父・久政との関係が良い事が示されており、一方で強制的に父・久政を隠居させた事実と合わせると、本人の意思ではなく国人衆の力が大きく、浅井家は国人衆の代表者・盟主(お神輿のような立場)という位置付けにある事が、こちらからも推測されるのである。
「でも、六角義賢は南近江の守護でしょう?どうしてそんなはっきりと浅井家より弱いと言えるの」
斎藤道三をボロカスに伝える『六角承禎条書』を書いたのがこの六角義賢である。剃髪して承禎を名乗っている。斎藤義龍は北近江(浅井領)に侵攻するにあたり、六角義治と斎藤義龍の娘との縁組をしようとしたが、六角義賢(承禎)は強烈に反対した。その反対を伝える書状が『六角承禎条書』である。
「観音寺騒動がありましたからね」
「何ですか。それは」
「3年前になりますが、六角義賢は、息子の六角義治に家督を譲ったのです。その六角義治が重臣の後藤賢豊を殺したんです」
「何故、殺したの?」
「知りません。ただ、後藤賢豊は人望が厚かったらしく、多くの者がその事に抗議して、六角家に反旗を翻したのです」
「それを鎮圧する時に消耗したの?」
「いいえ。六角義賢も六角義治もまとめて、観音寺城から追い出されました。ですが、蒲生定秀・賢秀親子が仲裁して回り、観音寺城に戻ることができたと聞いています」
「それじゃ、六角親子は家臣から全く信頼されていないのではなくて?」
「おそらくは。今は、蒲生親子の影響力の方が大きいでしょうね」
「六角も落ちたものよな」
そこまで聞くと、道三が話に入ってきた。
「六角義賢は13代将軍・足利義輝や細川晴元を助け、三好長慶と戦ったこともある男じゃ。三好長慶と和睦した後、北近江を攻めたんじゃ。そして地頭山合戦に勝って、浅井久政以下、北近江を支配下に置いた。なかなかのやり手なんじゃ」
そして、ひと呼吸おくと続けた。
「六角も京極も、元を辿れば、バサラ大名、佐々木道誉につらなる名門の家じゃ。以前は、比叡山延暦寺の僧兵と一緒に、京に攻め上り、法華宗を焼き討ちした事もある。なかなかの武闘派の家系じゃ」
「えっ、延暦寺が京を焼き討ちしたのですか」
「なんじゃ、天文法華の乱を知らなんだか」
「はい。知りませんでした」
1536年(天文5年)延暦寺の華王房が法華門徒の松本久吉と宗教論争(松本問答)で破れると、それを不服として南近江の守護六角氏を連れて京都の法華宗二十一本山を焼き討ちしている。天文法華の乱である。これにより応仁の乱以上に市街地が被害を受けたという。
「そもそも延暦寺は武闘派ぞ。随分昔に、天台座主の良源が「二十六箇条制式」を定めたんじゃ。その二十六条のひとつに『修学に耐えざる愚鈍無才の僧侶を選び、武門一行の衆徒となす』というのがあっての。筋の良い僧侶は皆が想像する通り、しっかりと学んでおるが少数よ。大多数の愚鈍無才の僧は『武門の衆徒』となって、僧兵になっておる。
それでの、延暦寺(天台宗)の華王房という僧侶が法華宗(日蓮宗)の宗徒に論破されおって、面目を潰されたもんじゃから暴挙にでたんじゃ。法華宗側だけで数千人が殺されたと聞く。まあ、法華宗も黙って殺される連中ではないがの。天文法華の乱の前には、法華宗は管領・細川晴元と組んで一向一揆と戦って、山科本願寺(浄土真宗)を焼き討ちしとるからの。うちは法華宗じゃったから、いろいろ武勇伝やら恨み言やら聞かされたわ。
そうそう、同じ天台宗でも、三井寺(園城寺)を寺門流(円珍派)、延暦寺を山門流(円仁派)と言う。覚えておくといい。この二つも歴史的に仲が悪い。同じ天台宗なのに、山門流は寺門流の三井寺(園城寺)を何度も焼き討ちしておるわ。
近江を知りたいなら延暦寺も知っておくべきじゃろうな」
道三が言う、天台座主の良源(912年~985年)は山門流円仁派の僧侶である。良源が定めた「二十六箇条制式」の本来の意図は『愚鈍無才であっても、武道による精神修養で悟りを開く事が出来る』という意味だったのではないか。なぜなら、「二十六箇条制式」は風紀の乱れを正す事が全体の目的であり文脈からそう考えるのが妥当と思う。『法華経(五百弟子授記品)』や『阿弥陀経』に周利槃特(しゅりはんどく・チューラパンタカ)の名が出る。周利槃特は仏陀の弟子のひとりで、優秀な兄と異なり、愚鈍無才で修学に向かない者であった。それでも掃除をしたり仲間や来訪者の履物をただ綺麗にすることに専心して、ついには悟りを得ている。当然、良源は知っている筈である。だから愚鈍無才でも武道に専心すれば悟りを得られると考えたとしても不思議はない。
しかし、長い歴史の中では、貧困から夜逃げした者だけでなく、犯罪者も寺社に逃げ込んでいた。寺社は実質的治外法権にあり、寺社に逃げ込めば、犯罪者であっても逮捕されないからである。そして、悪意をもった者も得度して僧侶の肩書を得る。そんな悪意を持った僧侶が僧兵となり、自分に都合の良いように解釈して徒党を組む。良源の時代ですら、そうした状況だったから「二十六箇条制式」を作ったのだ。まして戦国時代である。
この時代の僧侶・僧兵の大多数は現代の僧侶のイメージとはかけ離れていたのである。
「ありがとうございます。ちちっ・・・、沢彦和尚」
胡蝶は、父上と言いかけて言い直した。そして、竹中半兵衛に向き直ると礼を言った。
「ありがとう。半兵衛。いろんな意味で浅井長政との縁組は良い話のようね。それにしても上洛するとなると、比叡山も気にしないといけないのね。信長様はどの程度ご存知かしら」
初陣の動員力が800人の織田信長。初陣の動員力が1万1千人の浅井長政。実力を示し続けた信長のカリスマ性によるトップダウン型の織田軍と、共通の苦難を乗り越えるために集まり、合意形成による判断を行うミドルアップダウン型の浅井軍。これは経路依存性に依る組織文化・組織風土の違いである。もともとの家格としては近いと言える二人だが、その内実は極めて対照的である。
現代なら、信長は叩き上げ創業経営者・経営のカリスマであり、浅井長政は中堅企業の中興の祖となる優秀なサラリーマン社長というイメージである。当然、組織文化は大きく異なっていたのである。
組織文化・組織風土はその成り立ち・紆余曲折によっていろいろな影響を受けている。「以前にこんな出来事があったから、このようにしている」というものが積み重なって、暗黙の内に形成されているのである。それが経路依存性である。そういう意味では人の性格、あるいは信条に似ている。
だから、同じ業種、同じ規模の企業があったとして、外部要因で似たような組織文化・組織風土を作る反面、内部要因では同じ出来事を共有しないため、全く同じ組織文化・組織風土にはならない。内部要因が支配的な時は、全く異なる組織文化・組織風土になることもある。
ビジネスにおいても業種、リスクの大きさ、環境の変化の速さ、組織の規模に応じて、どんな組織文化・組織風土が優れているかが決まる。組織は戦略に従う。規則や組織構造は比較的容易に変更できる。しかし、組織文化・組織風土は経路依存性が強いために、容易に修正できないのである。
戦国時代という環境において、このような組織文化がどのように影響を与えていたか、興味深い所である。
(次回、ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑱に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)
参考:第4章
書籍類
信長公記 太田牛一・著 中川太古・訳
甲陽軍鑑 腰原哲朗・訳
武功夜話・信長編 加来耕三・訳
斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上 横山住雄・著
武田信玄と快川紹喜 横山住雄・著
比叡山の僧兵たち 成瀬龍夫・著
天下人信長の基礎構造 鈴木正貴・二木宏・編 の3章 石川美咲・著
近江浅井氏の研究 小和田哲夫・著
属人思考の心理学 岡本浩一・鎌田晶子・著
インターネット情報
小氷期
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2017/20170104.html
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/656/656PDF/takahashi.pdf
六角承禎条書https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.4.pdf
天文法華の乱https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
三井寺(園城寺)
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/ct.htm
Wikisouce: 美濃国諸旧記 編者)黒川真道
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Wikipedia
https://note.com/a_isoiso/n/nf8b09ac65a10