医療者は存在自体が「傲慢」である
医師にとって患者は何人もいるが、患者にとって担当医は1人だけである。患者は医師の一挙手一投足、何気ない一言に大いに翻弄され、一喜一憂する。当たり前のことだ。
医療者はどのようなことに気をつけて患者と対話すべきなのであろうか。
医療者と患者が話をする目的は、大きく2種類あると考えている。
① 合意形成を目的とする対話
医療には「答えのない問」がいくつもある。「患者の退院先を自宅にするか、施設にするか」や、「がんの患者さんに対して、Aという治療を行うか、Bという治療を行うのか、行わずに緩和的な治療に持っていくか」など。
② 合意形成を目的としない対話
日々のたわいもない(と医療者が考えている)ベッドサイドでの会話。患者に体調や、今後の予定をお話する。
実際の会話では、①と②の間にあるような会話も多い。医療者が②だと思っていても、実は患者にとっては①の会話としての意味合いを持つときもある。例えば、患者は医者の口ぶりから、自分がいつ退院なのかを推量する。
①と②がどのくらいの割合でミックスされるかは、グラデーション的にその都度変わってくる。
医療者はその存在自体が傲慢である
ここで重要なのは、医療者の論理展開は、どうしても独断論的な側面を排除しきれないということである。すなわち、誤りが含まれる可能性がある不完全な考え方を、徹底した検討をせず、それが正しいという前提で話を進める必要性がある。
医療者の知識や経験は、少なくとも患者さんひとりひとりに対する個別化医療の観点では「完全」にはなりえない。しかしその一方で、医療に正解はないが、とりあえずの結論を導かないと、医療行為はできない。
ゆえに、医療者は、その存在自体が「傲慢」であるという呪縛から逃れられない。
それに、医者-患者間には「情報格差」という永遠に埋まることのない溝が存在する。医学のプロである医療者と患者では、今相手にしている疾患についての情報量や経験に圧倒的な差がある。仮に患者がたまたま医療者であったとしても、立場が違うため、その格差を是正することは不可能だ。
要するに、医療者の習性は、こうだ。一見対話法を取りながらも、無意識的に(または意識的に)独断論の立場に立ち、そして情報格差を逆手に取り、自らにとって好ましい結論に導こうとしてしまう。
医療者は、自分自身がこのバイアスから逃げることができないことを、改めて認識すべきなのだ。
権威をうまく使う
しかし、医療者がこのように権威主義的になることは、うまく使えばプラスにも働く。むしろ、医療現場における患者-医療者間の対話においては、必要不可欠なファクターとも考える。
患者にとって、医療について熟知し、自らの取るべき道を示してくれるかどうかは、その医療者が信頼に足るかどうかの大きな判断材料である。
1980年まで医学界最高の権威を持つ医学誌、the New England Journal of Medicineの編集長を務めていたDr.Franz J. Ingelfingerの例を思い出す。彼は晩年に同誌に寄せた記事”Arrogance(「医師の『傲慢さ』について」)(PMID 7432420)”の中で、自身の経験から「権威主義、パターナリズム、患者の支配。これらは良い医療の実現に必要不可欠なエッセンスである」と述べた。
Dr.Ingelfingerは、奇遇にも自身が専門とする進行食道がんで亡くなるまでの間、何人もの専門家の友人に助けを求めた。しかし、知識がありすぎるが故にどうしたらよいかわからず、思いつめてしまった。
その時、ある友人から「あなたには『医者』が必要だ」というアドバイスをもらったという。すなわち、患者を支配する代わりに、パターナリズムで持って治療の全責任を負ってくれる人間を探し求めるように勧めたのである。
Dr.Ingelfingerは自分の知識を全て捨て、ただの一人の患者として、アドバイスどおりの医師を探した。その結果、そのような主治医に巡り会い、心から救われたと告白している。
自分自身は沖縄で5年間医師をしていたが、権威主義的なアプローチの塩つまみ加減を意識して診療に当たっていた。
要するに、目線を合わせて、相手の話をじっくり傾聴しながらも、
「医学では一般的にこうなので、私はこう治療すべきと思います。それでよいですね?」
というような断定表現を、少々ぼかしつつも確実に自らの言葉に織り交ぜるようにしていた。
そうすることで、患者の信頼を得ることができていたと思う。特に医師信仰が強いような地方では、このような手法も意識して取る必要があると感じている。もちろん、こうした場所では、特に情報格差が大きいため、説明次第で全てが決まってしまうという大きな危険を孕んでいる。医療者の責任はやはり大きい。
色々述べてきたが、結局、医療者はどのようなことに気をつけて患者と対話すべきなのであろうか。
とことん謙虚になる
前述のように、医療者は、プロフェッショナルとして「傲慢な」存在であることから逃れられない。その傲慢さをそのままぶつけるのか、「プロフェッショナリズム」「責任感」という言葉に置き換え、効果的に使用できるのかの違いがあるだけだ。
そもそも、どんな医療者でも、患者のことを1%も知ることはできないだろう。医療現場において、「自分らしく振る舞える」患者がどれほどいるだろうか。それに、患者の生き方、考え方、イデオロギーは日々変わる。全て証明することができないし、また反証することもできない。医療者は、患者のことを知ろうと努力しながらも、「患者の本質を知ることは不可能である」という、ある種不可知論的な謙虚さを持つ必要がある。
患者の本質に迫るには、対話を通じてそれを推定するか、すでに患者が判断能力を失っている場合、家族の話から類推するしかない。船の上から釣り糸を垂らしただけでは、深い海底の様子を知ることはできないのである。しかし、そこが岩場なのか砂地なのかを何とか推定して、戦略を立てなければいけない。
「相手の立場に立って考える」ことを意識的に繰り返す
自分がどういう表情をしているか、どういう姿勢で、目線の高さで相手と接しているか。患者は医療者の一挙手一投足を見ている。
「順調です」と言っても医療者の目が笑っていなければ、「実は自分の病状は悪いんじゃないか」と感じるかもしれない。退院したいと言い出したくても、医療者に余裕がなさそうだったら、言い出せずにふさぎ込んでしまうかもしれない。相手の立場に立って考える。その重要性を理解していない医師はおそらくいないと思うが、自分含めて、なぜかこれを忘れたかのような言動をしてしまうのだ。 いや、恐ろしいことに、医療者は本当にこの重要性を定期的に忘れる生き物なのだ。
たとえ話はできるだけ控える
当たり前のことだが、医療面接においては相手の本質を類推しながら、言葉を慎重に選んで話さないといけない。
たとえ話は慎重に使用すれば確かに効果的だ。その一方で、やり方を間違えると相手の立場や本質を無視し、自分の意見を押し通そうとする傲慢な行為となりうる。しかも、それに気づかずに終わってしまうことも往々にしてあるだろう。
ふと、気づいた。自分は、周りの理解があってここまで来ている。そうだ、親に感謝の気持ちの一つでも、電話で伝えてみよう。
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