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【エッセイ】理性、感情、現実、そして理想との狭間で

誰かがいるからとか、誰かのために決断する、ということができない。
その決断がうまくいかなかったとき、
その誰かのせいにしてしまいそうだから。

だから、きっかけの1つくらいにしてしまう。
ちゃんと、自分のなかで、
自分の答えとして出てきたものしか選びとれない。

自分のなかで説明できないことを選びとると、未来の自分に申し訳がたたなくなるから。

かといって、一貫した選択ばかりしているわけでもない。
矛盾をはらんでいたとしても、そのときの感情や、置かれている状況・環境、自分の考え方、生き方、大切なこと、関係性、そういったものを総合的に考えたときに、これだっていう説明ができればいい。

嫌になるくらい、自立、自律、自己責任、、、
新自由主義の考え方に毒されている。

そこでモデルとされた経済的合理人なんて存在しない。
実際の人間はか弱くて、感情に左右されまくって、非合理的だ。
私自身、理性と感情とのあいだで、そして理想と現実とのあいだで揺れて、いつもアンビバレントで矛盾をはらみながら生きていることも分かっている。
それでも合理的でいたいなんて無理な希望を持ってしまう。

生まれた時代がそうさせるのだろうか。

昭和のぐちゃぐちゃな人情を受け入れることはできないのか。

だけどそれに憧れたりするかと聞かれると、、、憧れる側面もあるのだけど、最終的にはNOだと思う。

自分の足で立たないと、結局苦しいだけで、誰かに寄りかかっても、一時的に救われたような気がするだけで、お互いに潰れていってしまうじゃないか。
昭和の助け合いでどうにかなる時代ではなくなってしまったじゃないか。
最小単位の社会である家族は、アトムに分解されて、温かい人情が育まれる土壌すらなくなりつつあるじゃないか。
そこにあるのは、個と個がぶつかりあって、調整機能を失った家族があるだけじゃないか。

そんな風に悲観的になってしまう自分がどうしてもいる。
これを恐怖と言わないでなんと呼ぶのだろう。

私には、それをうまく機能させる自信がもうないし、その犠牲にもなりたくないという気持ちが強い。私のような人間は、誰かと家族を作るべきではないのだと思う。誰かと向き合って頑張ってる人たちがたくさんいる中で、私は踏ん張れなかった。


この間、ずっとそんなことを考えていた。それで最近気づいたことの1つが、自己責任の考えが強すぎて、結局、誰かに対する責任まで負えなくなっているのかもしれないということ。要するに、余裕がないのだ。

みんな、そういうところは、なぁなぁにして生きているんだよって言われても、自分がそれを許せない。グレーのままでいいんだってことも学んだけれど、どこかのタイミングで白・黒をつけてしまう。じゃないと、決断して、前に進めなくなってしまうから。

だから、少しずつ人を頼ることを学び始めている。でも、密な関係よりも、友人くらいの距離感で、ゆるくたくさんの人と繋がっていたい。そのたくさんの人も、ただの知り合いとか、そういうことじゃなくて、割と時間をしっかり過ごして語り合ったことのある人の数を増やしていきたい、そういう感じ。

ちゃんと私の感情の深さを理解してくれる人たちと、程よい距離感で、ゆるく付き合って、お互いに助け合うくらいがちょうどいい。村くらいの規模間のコミュニティが本当は理想なのかもしれない。それでも、村からすぐに出て、大都会東京にもアクセスできる、という無い物ねだりをしているのかもしれない。同じところにずっとい続けることも苦痛だから。本当に自分勝手だなぁと自分でも笑ってしまうよ。

現代社会と、生物としての人間と、社会的な存在としての人間と、どう折り合いをつけて幸せに生きていくことができるのか。それを考えて生き方を模索しているけれど、まだ明確な答えはない。少なくとも、私みたいなタイプの人間には、恋人関係や夫婦関係にそれを見出すことができないのではないかと思い始めている。


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