好きだなと思う感覚に胸を張って
2ヶ月ほど前、人生で初めて写真展というものに足を運んだ。いつか行ってみたいなと思いながら、美術館には何度も挫折しているし、自分には鑑賞の目がないのかもなんて思ったりして、なんとなく行く気になれないでいた。
きっかけはTwitterで、「伝説のソール・ライター展、もうすぐ終わっちゃうから行きたい!」という誰かの呟きを見つけたことだった。
ソール・ライターという人の名前はその時初めて知った。駄洒落みたいで少し気が引けるれど、私の頭にすかさず浮かんだ二文字は「魂」と「書き手」だった。そのくらい、この写真家について私が知っていることは何もなかった。
誰を誘おうか散々悩んで、結局一人で行くことにした。一人で行ったほうがいいかもな、という直感に背中を押されたからだ。
事前にチケットを予約して、休みの日なのに早起きをした。ここぞとばかりに新調したワンピースを身にまとい、展示会場に足を踏み入れた。
有名な写真家とは聞くけれど前知識は何もなく、正直に言うとこの展示会に期待していなかった。可愛げのない私の、がっかりするくらいなら最初から期待しないでおこう、という精神だ。
ところが、そんなのは不要な心配だった。
壁いっぱいにかけられた写真に、本当に一瞬で心臓をギュッと掴まれたのだから。
素晴らしかった。
美術館や展示室を回ると必ず猛烈な睡魔に襲われる私は、その日、そこにはいなかった。
一枚一枚の写真を眺めながら、不思議な気持ちになった。それは、写真を通してソール・ライターという写真家に自分の写真を肯定されたような、そんな感覚。
当たり前だけど、私の写真をソール・ライターに見てもらったり褒められたりしたわけではない。
ソール・ライターの写真は、どれもが『素直』に感じた。タイトルだってものすごく普通だ。例えば男女がキスをする写真のタイトルは「キス」だった。これにはめんくらった。
なぜなら、その時の私の頭には「理解されないこと=自分の独特な感性」という式があって、写真に意味深なキャプションをつければつけるほど「感性」だという気がしていたからだった。
それなのに、こんなにも名を馳せた写真家の写真に付けられたタイトルは「見たものそのもの」という感じで、ひねりも、エモさも皆無だったのだ。
被写体自体も、目の前で起きた情景という感じがした。そもそもストリートスナップが多いからか、何か趣向を凝らした作風というよりは「日常の風景」「どこでも起こりうること」だった。
私は、ストリートスナップが好きだ。旅の中で撮る写真が好きで、道端のなんともない花の写真が好きだ。だけど最近、漠然と「それじゃだめなんじゃないか」という気がしていた。
何がダメで、どうダメなのか。そこもまた複雑な話なのだけど、SNSで人気が高い作品は、独創的な雰囲気の写真・強い眼差しをしたモデルさんの写真・絶景などが多いと感じていた。
私もこういう写真撮らなくちゃ。
撮れなくちゃいけない。
最所はただ、「こういう写真もいいな」「私も撮ってみようかな」くらいだったはずなのに、気がついたらそれが『正しい』のだと追いかけてる自分がいた。
こんなことを言うのはとても恐れ多いけれど、ソール・ライターの写真を見て「なんだ、これでいいんだ!」と思う自分がいたのだ。
ただの道。ただの乗り物。ただの水滴。
ただの通行人。ただの光。それでいいんだ。
写真には自分の意図があるべきで、何を表現したいのか、何を伝えたいのか。それらを込めなければならない。写真講座で習ったことがいつのまにか自分を縛っていたことに気がついた。
写真講座を否定する気持ちはない。人に見てもらうには、人が求める写真を撮らなければならない。それは多分すごく、正しい。
だけど、私は写真を楽しみたい。まだまだ自分の満足のいく写真が撮りたいという気持ちが強い。
私は旅で撮る何気ない異国の風景が好きだし、家の近所で見つけた道路の真ん中のスリッパとか、ビルのガラスに写ったおじさんのくたびれた靴とか、そういう瞬間が大好きだ。
それじゃダメだと思ってた。
でも、それでいいんだ。
そんなふうに思うことができた。
ソール・ライター展は写真が並ぶ壁のところどころに、ソール・ライターの言葉が浮かんでいた。
この言葉たちを、頭を殴られる思いで必死にメモした。
私はシンプルに世界を見ている。
それは尽きぬ喜びの源だ。
私が好きな写真は、
何も写ってないように見えて
片隅で謎が起きている写真だ。
成功者になれる人生か、
大事な人に出会える人生か。
私なら大事な人と出会える人生を選ぶね。
人と心を寄せあえる人生を。
しびれた。
私は私が好きな瞬間を写真に撮る。
そのことに、胸を張ろうと思った。
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