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豊かさがめぐる時間


ずっと書きたいと思っていた

私の大好きな"ごはん"の時間について

考えていることを書いていきます。


ここ最近、家族が

うちにごはんを食べにきてくれた。


この間は弟夫婦と

夜ごはんを食べて

5万人が選んだゲーム投票をみて

あーでもないこーでもないと

それぞれがやってきた

ゲーム作品について語り合った。


ごはんに用意したのは、おにぎり。

鮭とたらこのほぐし身と

梅干しに鰹節をまぜた2種類。

美味しいパリパリの海苔をまいて。


ほうれん草をバターソテーして

巻いた卵焼きと

ナス、カボチャ、玉ねぎ、トマトの

野菜の揚げ浸しをおかずに。


そして

おばあちゃんがよく作って

よく教えてくれた、けんちん汁。

何度も何度も作っているけれど

まだまだおばあちゃんの味への

道のりは遠い。


翌週には、夫のお母さんが遊びに来てくれた。

お土産のみたらし団子を

3人で煎茶と一緒に食べた。


そのままずっと椅子に座ったまま

語り合っていて

気付いたら夕方になっていたので

晩ごはんの準備を始めた。


宅配で変わった野菜が届いていて

前に食べた時とても美味しかったから

ぜひ食べてもらいたいと思っていた

野菜たちを取り出して作った。


祝蕾という名前のつぼみなを

塩昆布であえて、浅漬けに。

もものすけという赤カブを

スライスして細く切って、キュウリとサラダに。

昆布でだしを取った出し汁に

枯れぶしの削りと煮干し粉をいれて

原木しいたけとほうれん草

油揚げとワカメをいれて、お味噌汁に。

長芋をすって、とろろに。

秋鮭のカマを焼き

合間にさっぱり出来る様に

セロリも少しだけ並べた。


作っている間

お母さんと目があって

ニコッと笑ってくれて

その顔がとても優しくて

嬉しくて、私も同じ顔をした。


大切な人と囲む食事は

本当に豊かな時間でかけがえのない時間。


そう思うほどにいつも思う。

私の人生とあなたの人生が

混じり合ってあと何度こうやって

食事をできるのかなって。


終わりはいつも突然で

食事の時間はとても楽しいから

ふと、寂しさがよぎる。

私はそのくらいこの時間を大切にしてきた。


そう感じるほどに

私にとって"食"は

豊かさのポイントだなぁと改めて感じる。



私がこんな風に思うのは

間違いなく幼少期からのもので

小学生の頃から

おばあちゃんがごはんの作り方を

よく教えてくれて

「みぃちゃん、おいで」

「よく、覚えていなさい」

とプランターで作った野菜から摘んでは

料理を一緒にした。


ママはお菓子作りが特に上手で

色んなものを何度も一緒に作った。


父方のおばあちゃんやおじさんにも

作り方を教わった。


私はたくさんの人に

料理の仕方、家庭の味というのを

教えてもらえた。


他にもよく覚えてるのは

幼稚園でしたお芋掘りや、焼き芋の味。

小学生で行った教会のキャンプでは

野菜を収穫して

火おこしから料理を作る体験をした。

畑でもぎった野菜の衝撃的な美味しさは

今も忘れられない。


私の食への記憶はどれをとっても

愛しいものばかり。


小中高と両親が共働きだったから

弟のごはんも作って2人でよく食べた。

中学の頃はキャラ弁にはまって

自分のためにのりで作ったキャラ弁を

持っていったりもして楽しかった。


25歳の時一度退職してからは

半年くらい働かないで家事をしていて

家族4人分のごはんを毎日作っていた。

今までなんとなく作ってきていたけれど

野菜の種類や栄養を調べたり

出汁の使い方や、料理のレパートリーを

増やしたいと思って少し勉強したりした。

この時から、

なんとなく抱いていた料理への苦手感が薄れ

私は慌てず自分のペースで作ると

料理が大好きなんだということに気付いた。


たとえば何かをしてる間に洗い物するとか

なにかをやっている間の時間を使って

なにかを効率的にやるという

時短を良しとする世界での当たり前が

まぁ〜本当に出来なかった。


どれくらい出来ないのかというのが

私が料理した後と夫が料理した後の

キッチンを見れば一目瞭然だった。

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いつもこのくらい終わったあとの違いに

ふたりで笑っている。


2つ以上の動作を同時に並行することが

料理に限らず出来ないので

一生懸命やろうとすると

必ず片方の存在を忘れてしまう。


料理では、忘れると焦がすわ散らかるわ

危険が伴ったり大変なことになる。

今は何度トライしても出来ないから諦めた。


何を諦めたかといえば

"時短"を重視することをやめた。

効率良く何かをすることに

本当に向いていなかった。

なにかと、"効率の良さ"が

重視される時代に

それを諦めるなんて

最初の頃は努力のできないダメな人

という烙印を押された気がした。(勝手にね)


でも諦めてからの方が

料理が大好きという想いは増えていって

時短とは反対に位置する料理が

得意なことに気付けた。

時間をかけて作業するものや煮込むもの

下ごしらえに手間がとてもかかるもの

そういうものが私は大好き。


面白いことに時間的にも

1つずつ確実にこなしていくほうが

私は最終的には早く終わることが分かった。


何かをやっていると

隣で煮物なんかを作っていても

吹きこぼれない限り存在を

すっかり忘れてしまうことがあるので

タイマーを小刻みに乱用するようになった。

私の集中は1点に絞られてしまう。

どのくらい集中が狭いかといえばこんな感じ

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作業している以外の音も大きくならないと

聞こえなくなる。

だから、何か別の作業に入る時には

タイマーをつけてから入るようにしたら

忘れることが減った。

ピピピという音で、あ!そうだ鍋!と

定期的に様子を見れるようになった。


料理の作業はめちゃくちゃマルチタスクで

未来を予測して行動する作業の

オンパレードだ。

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発達障害は"予測する"ことが難しく

料理は私が苦手とする作業が集まっていた。


だけど私は食材や料理が大好き。

食材に触れている時の触感。

季節や旬を五感で味わう時間。

冷蔵庫の中をみて

献立を考える時間。

はぁ…美味しい…とだれかの

あの表情をみれる瞬間。

自分でつくり、自分で食べるという

満ち足りた時間。

クリエイティブな作業の連続で

とってもワクワクする。


苦手だけど、大好きという矛盾に

気付いてからは

苦手と大好きを分解した。


大好き、楽しいな〜のまま終えられるように

苦手な部分は工夫を沢山重ねてきた。


苦手に気付き工夫した部分はこんな感じ ↓


▷  切り替えが上手く出来ない

なにかの作業を中断して
時間になったら料理を作るという
流れを自然に作るのが難しく
取り掛かりが億劫な部分には

"好きな音楽をかける"ということと
料理の時間を繋げていくことで
スムーズに切り替えられることが増えた。

やりたいのに体が固まって動けないときは
切り替えの部分に"好きなこと"を挟み込む。



▷ 作りながら片付けができない

これは何度やってもどちらかをやれば
どちらかが見えなくなる現象が起きて
わっ?! えっ?! なんで?!キャー?!
という悲鳴が、料理中増えるだけなので

とにかく作るに集中して
片付けは全部終わってからやることにした。



▷  洗い物や片付けが難しい

洗い物や片付けに共通しているのは
未来への想像力だと思う。
どこから手をつけてどういう風に置いて
いいかが脳内で上手くイメージ出来ない。
毎回同じ食器がでるわけもなく
イメージの組み立てを考えることは毎回変わる。

これに関しては疲労度が格段に違うので
とにかく無理をしないことにした。

出来ないものは夫にお願いする。
できる時にできることをするに変える。

最近は直感のままに洗っていくというのを
実行していてこれがなかなか良い。



▷  献立の決め方について

レシピを見て作るのが得意な人と
レシピが苦手で適当に作るのが得意な人が
居ると思う。

私は完全に後者だった。
冷蔵庫の中身を見て
あるもので献立を決めることが私は得意で
レシピを見ながら作ることは大の苦手。

だったら無理せずに
私のやりやすいやり方を採用して伸ばしていく。


▷ 途中でこだわりの発作が出たら休む

料理が大好きな故に
食べ物に対してのこだわりはとても細かい。
食材の質や、成分、器、盛り方、味に対しては
特に細かい。
出来れば美しく作りたいし盛りたい。

だけどどうしても失敗してしまうこともある。
思ってたのと違うこともある。
そんな事態が起きてしまうと必ず自暴自棄になる。
全部が嫌だ。もう食べたくないと極端になる。

そういう時は、その嫌な気持ちを味わいまくることにした。
一旦料理を中断して座って、ムッとする。
10〜30分、または1時間くらいすると少し落ち着いてくる。
それからまた始めることを許すことにした。

それでも時間がない時は諦めて、出前を頼んだり買ってきてもらうことにしたりする。

だいたいがこだわりが原因なだけで
食べれないものを作ったりはしてないから
次の日になれば、あれ美味しかったじゃん!と
ケロッと感覚が変わって食べれたりするから

とにかく"今"無理を重ねないことを優先する。


▷ とにかく今の"気分"を大切にする

私の"作りたい"という原動力は
・好きな料理を食べたいとき
・新しい食材に出会ったとき
だいたいがこの2つで出来ていて
ワクワク楽しくて仕方なくなる。

それと反対に
作りたくないときは作らないを徹底する。
嘘がつけないから、作りたくない時に
やろうとすると倍時間がかかるし
イライラするし、そんな想いがのると
更に適当な雑な料理になるからやらない。

だから毎日食事の時間前になると
丁寧に心を観察する。

今日はどんな気分?
作りたい?作りたくない?
何が食べたい?
家で食べたい?外食?出前?と
毎日毎日確認する。

この判断を間違うと未来の自分が
パニックやこだわりを起こしているのが
見えるから私はこの気分の選択を
慎重にせざるをえない。


▷  日本の古い常識から完全に自由になる

今でも
「旦那さんが家事やるなんて素敵!偉いね」
「手伝ってくれるんだ、いいね」という
言葉や会話を耳にすることは多々ある。

こんな言葉が
日本から早く消えたらいいなといつも思う。

元々"イクメン"などという言葉も大嫌いな私は
(あなたの子どもでしょうがと思ってしまう)
女性だから〜男性だから〜という価値観に
あまり囚われていないのだけど

そんな言葉を聞くたびに一旦よく考えて、、
家事って生きるうえでやることでしょう。
育児って子どもが生まれたらやることでしょう。やらなかったら死んでしまうもの。

そこに男と女で感覚変わってしまうのは
そもそも人として考えたときに
変だと思いませんか…

女性とは〇〇すべきというような
知らない間に刷り込まれている概念に
自分が無意識にそちらへ向かっていないか
確認していくこと。

私も何度も何度も確認して
気付くたびに捨ててきた。

男尊女卑は昔の話なんて、嘘。
今も私たち日本人の血には流れてる。

男尊女卑してない風にみせたり
男女平等賛成風に装っていくのではなく
そんな概念そもそも捨ててしまいたい。

変だなって気付けた瞬間から変われる。
無意識の"やらなきゃ"から脱却する。

"やらなきゃいけないからやる"時間を
"やりたいからやる"の時間に変える。




これらの考え方を自分なりに見出してから

以前にも増して料理の時間は

ルンルンとご機嫌なことが増えた。

ただ好きでやっているだけという

純粋な気持ちに変わったから。



" 食べることは、生きること。"

という言葉が大好き。


本当にそうだなぁと思うから。


食事への考え方は、生き方と

同じ数くらい

人それぞれで個性がある。


食への考え方、知識は

いろんな視点からごまんとあって。

書籍や映画もたくさんある。

私にしっくりくる考え方を見つけたいと

ずっと探していた。


私の心と体の感覚と

好きな人、書籍、映画が

導いてくれた。


好きや嫌いを導き出すまでに

情報の多さに驚く。

家庭料理から高級な料理までの

バリエーションの豊富さ

オーガニックや有機農法、農薬の有無

など育て方や環境に対する考え方

アートとしての食に対する価値観

成分や食材についての色々な説

ビーガン やベジタリアンの思想や環境問題

話が尽きないほど考える視点は

本当に沢山ある。

食の世界は奥が深い。



去年でいうと食については

ペスカタリアンを実践してみたり

分子栄養学を学んだりしていた。

良いとか、悪いとか言われていることも

心がよくても体が合わない

体はよくても心が合わない

ということが私はよく起きた。

それは誰にも言えることなのだと思う。


実際にペスカタリアンは何ヶ月か実践して

私の身体には合わなかったようで

ゆるく行うことで今は落ち着いた。


色々なことを学んでは

取り入れたり辞めたりという

紆余曲折を繰り返しながら


今も学びの途中だけれど

自分なりの形をした

なにかが食に対して今見えてきた。


今はっきりと自分の中にある答えは

何かが良い、悪いと偏りすぎずに

自分の心地良さを大切に選択する。

体と心は想像以上に複雑で

あまりにも唯一無二で

あれが良いと取り入れたり

あれが悪いと取り入れないようにしても

そんな単純な話なのかは実際わからないから

無理のない範囲でいいなと思うものを

取り入れてみて

心と身体の両方のバランスを見て

相談しながら決めていくということが

本当に心地よいと感じている。


食べるという時間の過ごし方や

その時間の質を考えることは

私にとっては生き方を考えることと

同じ意味がある。


それは私自身が

食が好きで大切に思っているから。

そこに意味が生まれる。


どんな空間で

どんな食事を食べて

どんな時間を過ごすか。

それを誰と一緒に過ごすか。

そして、何を話すか。

私の豊かさは、ここに詰まっている。


料理がこんなに大好きなのに

料理が好きなんだとあまり人に

話したことがなかった。

作ることや食べることに対する興味も

話すことはあまりなかった。

それは

料理をつくるまでの過程が

決して上手とは言えなくて

コンプレックスになっていたから。

大好きが故に上手くなりたくて

大きなコンプレックスを

感じたものだったことに

気付けた今日。



全部が上手に出来なくても

大好きには変わらない。


大好きなこと、話していこう。

これからは、もっと。


私なりの作ること、食べること。

私たちに与えられた"食事"という

豊かな時間と

私はこれからも真っ直ぐに

向き合っていきたい。


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