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2021/10/8 「これから」

私は少し、人生をお休みしようと思う。今日見終わったドラマで、使われていた言葉だから使ってみた。

私には「人を思うこと」がわからない。ずっと考えてきたつもりだ。それなりに苦しんだと思う。たくさん考えてきた。

それでも言葉になっていかない。自分が一番その人から離れていて、わかるところからも遠い気がするのだ。思う相手に近づけていないなんて、それは「思う」でも何でもない。結局、私は何もできていないし、何も変われていなかった。

それしかないのに、それすらできない私は一体何なのだろう。

私は、「人を思うこと」で一番になりたい。こんな人は見たことない、初めて出会った、これが本当の「人を思うこと」で、これが本当の愛なんだと、見せつけられる人でいたい。

一人だけで「人を思うこと」ができなくて、大勢の中の一員として、あわよくば、その道のプロとして、やっていくなんて到底できないことなのだと思う。

それでどうして、人生を休むに至るのか。

私はきっと縛りすぎている。縛って縛って、引っ張り続けたその結果がこれだ。「気」ばかりが大きくなりすぎて、まったく何処にもたどり着けない。だから、何年か掛けて体勢を整えることにした。曲がるだけ曲がって、あとは一歩も進み始めていないこの身体をどうにか真っすぐ、時間を掛けてあげることでしなやかに美しく、中をめぐり渡っている水が溢れ出していくような、思うことで豊満な樹を目指して。

その間、私はゆっくり神経をたなびかせるだろう。風に流されて、ただそのように........

苦手なことだ。一年もすればきっとまた怖くなってくる。いつも通り、逃げ帰ってくるかもしれない。それでもその怖さに耐えて、休みに身を委ねる必要がある。その場を楽しむ時間が大切なはずだ。

その時間で熟成される。耐えた分、良い味を出して人間味を持って、また人生に戻ることができるのだと思う。

そうして生まれたものは、きっと誰かの元へ届く。奥にある、実相に届くようになる。独りよがりではなく、必ず、人をひきつける力を持つはずだ。甘い蜜ではない。一瞬のひとときでもない。

「一緒に死のう。」と言ってくれる誰かが現れてくれるのだ。私にはすでにその人達がいる。、、このような場合、自ずから、「一緒に死にたい」と言える時が訪れるのだろう。これは性ではない。生の結びつきだ。

言える時を俟って、それで晴れて「人を思うこと」を伝えていく人になる。


またね👋

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