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2021/6/23 「運命」

この頃、自分の人生、つまり「自分の命を引き受けること」について考えている。如何なる生き方をしていたら、命が運ばれていく人生を引き受けていることになるのか、わからないのである。

遡ること、大体一か月前のこと。「ひとは《その》ように生きる事しかできない。」と、お言葉をいただいた。人生と私と《その》とが、どのくらいの位置関係にあるのか未だ分からないでいる。命が運ばれていくままに生きる事しかできない、ということであるのか。それとも、運ばれていくままの人生、自分の意志による選択だけで切り開いていけない人生を、どのように向き合って生きていくのか。それはその人に依っていて、その人は《その》ように生きる事しかできない。ということなのか。

後者だという考えが徐々に高まってきてはいるが、確信が持てない。なぜなら、各々の、各々に依った生き方。それすらも、もはや運命ではないかと考えられるからだ。

自分の意志による選択だけで切り開いていけない人生をそのままに、本当にそうだと受け止めて生きていくのか。信じつつ、内心では「そうじゃない。」と信じながら生きていくのか。信じているかどうかなんてものはどうでも良く、そう思えた方が楽だと思いながら生きていくのか。

これは果たして。自分の意志か、運命か。狭間をうろちょろしているのである。

たどり着いた答えがどちらであっても、覆ることがないであろう「自分の意志による選択だけで切り開いていけない人生」。これを何故、私たちは引き受けなければならないのだろう。

別に願って生まれてきたわけでもないのに、何故、生きて死んで行かなくてはならないのだろう。こんなに長い人生を。人生を長いと思っている私はまだ、お子様なのだろうか。

両親に「生んでくれてありがとう。」と心から伝えられる人は、その命を引き受けられているのではないかと、勝手ながらに考えている。

たとえ、第一志望の会社ではなくとも、ご縁で結ばれ得た会社に「就職する。」と決心できた人は、その命を引き受けることができているのではないかと、勝手ながらに尊敬している。

こんなことを考えなくとも生きていられる人は、私なんかよりずっと、その命を引き受けて、自分の人生を踏みしめているのでは。と、伝えたい。

書き切れない人達がたくさんいる。だから、私以外の人、とでも言っておこうか。別に特別になりたいわけじゃない。

ただ、思った。

私がずっと探していたのは、なんとか命を引き受けられる場所なのでは。と思ったのだ。ここなら何とか、一人でも、自分の人生を踏みしめていけるという場所を見つけたかった、一人前の社会人になるまでに。そんな気がしたわけである。

そうじゃなかったら、どうしてこんなふうに生きてこられたのかわからない。

自分の意志で選択してきたのだと思えない限り(それだけでは無理だとわかっていながらも)、私は多分、自分の命を引き受けることができないし、その道でないと自分の人生を踏みしめていけないのだと思う。

そのことを、無意識に、もしくは潜在意識的にわかっていたから、こんなふうに生きてきたんじゃないのか?と思っているわけなのだ。

でも、「引き受けたい」と思っては、生きてこられた。そう考えると、探してこられた、見つけようと必死になれた。その時点で、「引き受けていた」なんて都合の良いことも言えるのでは?とも思ってしまう。

最も、驚いたのは、私の命を引き受けてくれる人がいて、私がその人の命を引き受けることができたなら。と考えた時に、「それはすごく幸せだ。」と思えていたことであった。

これは果たして運命か。


またね👋




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