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編集者の立ち止まり

久しぶりに書こうと思い立って、まずはじめに、ふと気が付いたこと。こんなに自由な白紙は、いつぶりだろう。

雑誌の宣伝のために紹介文を書く。スウィング動画の解説文を書く。取材してきた内容をまとめる。
白紙が準備されていても、それなりに書く内容が決まっているから自由じゃない。そういう日常にイレギュラーなことが舞い込んでくると、困惑する。自分の意思で書き始めている? いやいや、舞い込んできたのだ。書くことが日常になっている現在、“書こうと思い立つ”のは、ある種不思議なことだ。

いうて、書きたいことが特にない。伝えたいことも、特別ない。
そんな奴がどうやって文章を書き進めるのか。
と考えていたら、寝落ちていた。

ある人が考えるページ作りの正解は、楽しいと思えることと、分かりやすいことだそうだ。
私がもし答えるとしたら、推せるかどうか、一択に絞られる。つくづく思う。自分は根っからのファン気質。そして、一途だ。
今の所、そういうページはひとつも作れていない。選んだ写真一枚、一枚は推せるものばかりなのに、ページやその前段階の文字稿、企画書ですら、推しは生み出せていない。まぁ、当然と言えば、当然なのかも。推しは、基本的には自分で生み出すものではない。誰かが生んだものを、好きになる行為だ。それに、企画書が推せるものでなければ、文字稿もページも推せるものにはなり得ない。言わば、企画書は種だ。種が不作なら、その先でも不作になるしかないのだ。

本物のファン魂が入り込んだ、生きた推しを生み出すには、どうしたらいいのだろう。一押しではない、推しを生かすためには。どうにもこうにも不作続きで、今年いっぱいはダメかもしれない。そういう年もきっとあるのだろう。毎年と同じようにやっていても上手くいかない年が来るんだろう。それはもう、どうしようもない。気候なのか土壌なのか。それぞれがピタッとハマる機会を待つしかない。

でも、もし一度、その機会が訪れたら、あとは歯車が回り出すと思うのだ。咲いて、またすぐ、いい種が作れると思う。

あとちょっと。あとちょっと、何かが足りない。

種というか、さらにその前、そこからもう始まっているのだ。

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