2021/7/17 「初心」
思って、感じ取ることが好き。面白い見方、私なりの見方は要らない。相手の本当の一部分に近づけたらそれが一番良い。これ以上の嬉しさはないのである。
「本当」に指先で触れてみたい。掌全体ではなく指先で、皮膚に触れないよう産毛だけにタッチしてみたいのだ。「本当」はきっと青い炎だ。それを守るのが皮膚で、産毛は何だろう。守ることはできないが、体温を保つために外側から柔らかに包み込むのがそれだろうか。
汚い外界の空気に全面が触れ「守る者」や「本当」が腐ってしまわぬよう、無数の仲間と、高温の熱を包含した炎に、か弱く寄り添い合っているのだろうか。
か弱く寄り添い合うことで誰かを包み込んでいるようなこの産毛たちを、月光で照らし撫でてあげたい。搔き分けることなくそのままに、同じか弱さで触れたいのだ。その存在を失わずに。失わぬことが「本当」である。
触れて感じ取ったものを表現することには、私の全部を費やしたい。「本当」には、「本当」で返すことしかできない。言葉の中でなら、誰に守られなくとも青い炎だけで生きることができる。そこに産毛や皮膚は存在しない。どんなに繊細な文章でも、そこにあるのは青い炎だ。甘く見ては殺される。
血が滲む文章、何も知らない読者にもそれが見えてしまう文章が書く意味のある文章だ。そして。肌を撫で、滑りゆく。撫で、滑り、自然に傷を付けている。消して殺さないが深く傷を刻み込んでいるものこそ、目指しているものだ。天の方角に見える。はるか遠く。登っていけるだろうか。
書いた後、息が上がり過呼吸になっていれば、それは正解だと思う。「書き上げた」という言葉がよく似合うはずだ。そのためには、俟たなけばならない。こみ上げてくるものの、実相が見えるまで。堪忍して、その時が来るのを俟つのみだと言える。俟つことが、「書く」の何かを握っている。
この文章に名を付けたのは、7月15日。ここまで書くのに2日もかかった。書ける時を俟つ必要があったのだ。
どうだろう。この文章の向こう側に、私が見えているだろうか。私のいる世界が見えるだろうか。貴方の瞳にその光景が浮かんでいるだろうか。私はどう見えている?
やはり物凄く難しい。深く読み、よく書けていれば、自然と体温が乗っているはずだ。そういう文章が書きたいのに。どうしてこうも書けないのか。我ながら、本当を隠しているとは思えない。
私には「俟つ」に耐え切れる強さがない。俟つことで苦しみが襲ってくるなら、俟つことから逃れる道を探してしまう。でも、この先は、それではいけないと言われているみたいだ。
またね👋
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