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『心が口ほどにモノを言いすぎた』 ショートショート

 ──離魂。
 離婚ではない。リコン。病をつけて離魂病。聞いたことはあるだろうか? そんな言葉はない? ネットで調べてみた。

『離魂病とは、魂が肉体から離れて、もう一人全く同じ姿の人間になると信じられた病気。影の病。または夢遊病』

 前者はずいぶんとオカルトチックに聞こえ、後者は睡眠時の現象として物理的に捉えられているように聞こえる。いずれにしても一般的に馴染みのある言葉ではない。
 
 これは、正常な思考とはちょっと相容れないお話。

 二十代前半。私は悲観していた。
 身寄りがなく、依存しきっていた彼氏の実家での生活。彼の家庭も複雑で、父親は別居、大きい弟や妹もいた。仲良くしてはそれなりに気を遣い、生活費を渡し、謙遜はしていたとは思う。だが、〝家族ぐるみ〟なんて綺麗な認識は私だけだったらしい。
 
 「別れたい」

 こんな他者依存症の人間が、同居しているさなか、急に別れ話を切り出されたらどうなると思う? 分かりきった答えだ。今でこそ「そりゃそうだよね、今までありがとうごめん」くらいは出てくる。けれど当時は、ヒステリックに拍車がかかり、「嘘つき」「ずっと一緒だって言ったじゃん」「母親とも話し合ったって何」なんて言える限りの罵倒に狂っていた。
 俗に言う、メンヘラだ。

 結局、話し合いなんてこちらが正常じゃないから拗れ続けて、それでも彼の母親は私のことまで心配してくれて。環境としては恵まれていたお別れだった。
 恐らく女性としても息子の母親としても、まずは私の独立を思案していたのだと思う。そんな正論と自分の未熟な精神の狭間で、私は数少ない友人へスカイプした。電話じゃないのは、友人が異国の地に住んでいたから。
 夜か、家を開けてる日中。
 彼の家族と顔を合わせない時を見て、泣きながら。

 別れが決まってから彼の家をでるまで、ノートパソコンに縋る日々がはじまった。

「うち来なよ」「頑張ったね」「泣かないで」
 
 そんなありきたりな励ましにしか耳を傾けることができなかった。毎日友人と話すことが唯一の休息。それ以外では塞ぎ込む。
 一人で出かけては気を紛らわし、住処へ戻れば体の関係を迫る元彼が待つ。絶対に嫌だと言った。

 何年も付き合ってセフレなんかになってやるものか。
 愛のないセックスなんてだれがするか。

 そもそもは私自身の後ろ向きな思考と依存癖が悪かったのだけれど。同衾を断ることで、見返したような優越に浸りたかっただけだと思う。

 友人とのスカイプが日課となり、あの家を出るまであと一週間となった頃。
 彼の母親から最後の思い出に、と地元の小さな動植物園に行こうと誘われた。元彼も小さな妹も。大きな弟は興味がないそうで来なかった。
 そうしていろんな植物や小動物を見て回る。

 正直、心ここに在らず、だった。

 人のいい母親には申し訳なかった。私はただ元彼が隣にいることがひたすらに辛くて。
 帰ってすぐにでもパソコンを開きたい。
 ネットの向こうには私の望む独り善がりの世界が待っている。友人と一緒に彼を罵るんだ。

 心身疲弊とメンヘラを極め、感性の歪んでいた私は、生きた心地がしていなかった。全て自業自得なのに。
 彼女のような人間として出来た善意を、心の奥底では「なんなの」としか受け取る事ができず、馬鹿な女だった。

 歩く先には珍しくワニがいて、幼い妹たちが喜んでいる。
 それを見て、純粋に何かを喜ぶ日が来るのかな、なんて、また気持ち悪いくらいの悲劇のヒロインに心酔していた。恋愛依存にもほどがある。
 そんな矢先だった。
 母親の携帯に一本の着信が入った。

「なに言ってるの?」

 彼女は半笑いで、怪訝そうに電話の相手へ返した。

「あの子は私たちとここにいるよ、今日は朝から動植物園に行くって言ったじゃない」

 母親を一瞥した私は、急用かな、程度にしか考えてなかった。今は自分は正直それどころではなくて、現状全てにどうでもよくなっていた。ほんとう、心底、どうでもよくて。

「だから一度も離れてないし、免許もないんだから家に戻れるわけもないでしょ。あなたが寝ぼけてただけ」

 そのあと母親の表情は一気に曇り、私をまるで幽霊でも見るかのように視線を向けた。

「……鍵は閉めたはず。とりあえず戸締りをしておいて。帰ったら話を聞くから、早めに戻るね」

 元彼が、どうしたの? と訊ねると、彼女は言いづらそうに電話の内容を話し始めた。

「よくわからないけど、リビングで寝てた弟があなたを家で見て、ずっとパソコンで喋ってたって。突然姿を消したからどこ行ったのかって聞かれて……。そんなことあるわけないわよねぇ? だって朝からずっと私たちとここにいて」

 あからさまに困惑していた母親は、私と元彼に向けて、どう思う? と続けた。

「あいつが寝ぼけてただけだろ」

 息子の威厳なのか、すかさず現実を諭すように混乱をピシャリと遮った。

 私は「不思議ですね」とだけ返して、あとはどうでもよかった。

「でもね、玄関が半開きだったって言ったのよ。ちゃんと鍵は閉めたし、そんなことあると思う?」

 これにはさすがの元彼も私も驚いて、「えっ怖い」と口を揃えた。怖いの意味は、幽霊のような怖さではなく、空き巣の物盗りだと思っての『怖い』だった。彼の方の意味はどっちかは知らない。

「とりあえず帰ったら話を聞いてみよう」

 そうして動植物園を後にし、彼の家へと戻った。
 私は帰りの道中ですでにその事が頭から抜けていた。
 それよりパソコンが拠り所で、精神安定剤だったから。

 帰って早々、弟が駆け寄る。大学1年にしては大人びた弟。

「ねえ、今日家でスカイプしてたよな?」

 彼の第一声に「いやしてないよ今日は」と否定する。
 弟くんは怖い話が苦手なようだった。
 普段はクールな印象なのに、やけに饒舌だった。

「いや確かに聞いたんだ。彼女がずっとリビングでパソコン開いてスカイプしてたんだよ。後ろ姿だって見た。俺はその横のソファで昼寝してて、ボソボソ何喋ってたかはわからないけど、途中で静かになったから俺は起きたんだ。それで玄関まで行ったらドアが半開きで、彼女の靴がないから。どっか行っちゃったと思ったら焦って」

「ええ、不思議ですね」と最初と同じ返しをしつつ、とんだメンヘラだと思われてるな、と弟くんの配慮や幻覚には胸中で拍手した。

 結局、物盗りもなく、空き巣の被害はなかった。
 それが何よりだと思う。
 鍵は閉め忘れだろうで片づき、しばらく経った弟は「やっぱり見間違いかぁ」と一人で納得するようになっていた。

 元彼の家を出て数年、一人暮らしを経てリゾートバイトをしたり。今は悠々自適に生きている。恋愛に限らず、物事を悲観的に考えるのはやめにした。落ち込むときはとことん落ち込むけれど、行きすぎると暗がりで窮屈で仕方がない。体力の消耗も激しい。
 まあ、そういうこともあった、今後も再びそうなるかもしれないけれど、自分なりに迷惑をかけず真っ当を貫くことだってきっとできる。病み期を脱したら、そんな感性を受け入れることも可能になった。

 そんな中、離魂病という言葉をネットで見かけた。
 思い当たることがあった。あの弟くんとの出来事だ。
 そうだとは断言できないけれど、思い返せば、よく似ている。

 きっとあの頃の私は心が主張しずぎて、依存しすぎて、口にできないまま魂がうっかりすり抜けてしまったのかもしれない。

 離魂? ドッペルゲンガー? 幻覚? 夢遊? 

 括りはよくわからない。

 ただ、〝心ここに在らず〟は、ほんとうに心がそこに居ないのかもしれないね。


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