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夏の終わりに


いくつもの「生」が街を行き交っている。お昼休憩なのであろう会社員のグループや、整えられたスーツに鞄を持ったサラリーマン、絶対にこの人は美容師だというような雰囲気を見に纏った女性、予備校を出入りする学生と、これから部活に行くはずの大学生たち。
みんなそれぞれの家族がいて、関わる人達がいて、生きてきた環境がある。誰一人としてそれらが全く同じだという人は居ない。

同じ日本なのに北と南と真ん中じゃ全く気候が違う、こんなにも。でも人々の口からは同じ「暑い」という言葉が出てくる。生まれ育った環境や慣れが作り出す感性は本当に様々だ。


人生は一度きりだと言う。だから一瞬一瞬を大切にしなさいと。でも逆に一度きりだからこそ自分の思うままに適当に生きるのも一つの手だと思う。なるようになるの、一度しかないなら尚更、我が道を突き進めばいい。反対されても無理だと思っても、きっと挑戦することに価値がある。

私はそんなふうに生きたいと思う。

それに、自分の思うままに生きた方が一瞬一瞬を大切にできることだってあるはずだ。


バスから降り立った場所で写真を撮るから
旅行の一枚目はだいたい何の変哲もない山ばかり


かけられたことのない言葉をかけられる。
いままで私の生きてきた環境では当たり前だったり特に変に思われなかったようなことが、また別の環境では特殊だと思われることもあるんだと知った。
これが普通だと思ってた、だけどそうじゃない人もいるんだと、そういうものは何気ないところで出てくるんだと知った。

それがね、ネガティブな言葉かもしれない。いままでずっとそうやって生きてきた自分の軸みたいなものが、周りの友達にも共通するその軸が、別の場所で新しい出会いと共に最初は少し悪い形で受け取られてしまうこともあるかもしれない。
まんまと落ち込んでしまう、そういうふうに受け取られてしまっていたんだと、自分でもよくわからない感情が渦巻くの、でも「そう受け取る人もいるんだ」って思えた時、受け止められた時、少しだけ気持ちが楽になったような気がした。

自分と違う環境で生きてきた人たちとの関わりは、「私」を明確に映し出す。
同じ環境で育ってきた友達って、結構同じ価値観だったり生きる軸みたいなものを持って育つから、ずっとそこに留まっていれば気づかない「自分」もいる。
地元を離れてからこの数ヶ月で私は、わかっているつもりだった「私」が本当はどんな人間なのか、だんだんとわかってきたような気がする。

自分探しの旅に出る、とかたまに聞くけれど、本当の意味でのそれは、自分が育ってきた場所から離れて新しい人脈を気づくことでやっと、スタート地点に立ったと言えるのかもしれない。



愛用のカメラを手に、少しだけ遠出した日。

アイスクリーム屋さん
生い茂る緑の葉はどこか安心する
輪投げなんて何年ぶりかな
ここのベーカリー、午前中で売り切れるらしい
趣があるってこういうことなんだろう
車と影


リュックに2人分の荷物を詰めて肩からカメラをさげ、わくわくとどきどきに包まれた私を見て君は、旅行少女みたいで可愛いねと言う。

緑と風と陽のコラボレーションは、小さい頃のような心躍る感情を彷彿とさせる何か特別なものを持っている気がした。



もう夏は終わる。









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