見出し画像

【私と本】2冊の本からたてた仮説について

 本を読むときは何冊か並行して読むということが多い。通勤途中で読んだり、お風呂で読んだり、仕事中に関連する書物を手に取ってそのまま興味をもったものを読み続けたり、いろいろ。

 ここ2週間ほどは、ほとんど同時に2冊を手に取り、そのまま読み進めていった。『女の一生』は読んだひとから話を聞いて読みたくなったもの、『愛と心理療法』は他の本のなかにタイトルを見て、興味を抱いたもの。

 並行して読んでいると、一方の理解を深めるために、もう一方が作用しているような、ふしぎなことが起こった。といってもいつもどおり、自説というかそういうふうだし、本の内容についても多少触れてありますのでご了承ください。

*

女の一生(一部・キクの場合)

 私の読書というのは偏りがあって、文学作品でも手にしてないものも多い。この本はタイトルも知らなかった。いまの仕事と縁の深い大浦天主堂界隈の景色や、歴史とのかかわりが深い作品で、その空気を感じながら読んでみた。作中には浦上四番崩れと呼ばれるキリシタン迫害についての部分もあり、それは昨年12月に訪れた津和野も舞台となっているため、情景や空気感を思い出しながら読むことができた(行く前に読んでいればまた感じるところももっと多かったかもしれない)。この作品の主人公、キクの生涯については読みながら色んなことを感じたのだけれど、こちらを先に読み終えて、しばらく態度を決めかねている部分があった。

*

愛と心理療法

 アメリカの心理療法家スコット・ペック氏が日々の臨床活動から得た知恵が書かれた本。と、いうのはあまり知らずに手に取ったのだけれど、とても興味深いというか頷ける部分の多い本だった。日本語の「愛」という言葉はときにはとても限定的であったり、理解が偏ったりする場合があるので受け取り方はさまざまかもしれないけれど、できればあまり偏見なく読んでいただけると、日常におけるあらゆる側面で非常にいい作用のある本ではないだろうかとおもった。生きる姿勢という点において、ここに書かれているようなことを意識しながら過ごしてみると、見えてくるものだったり身近な人への接し方、それからなにより自分という存在(たましい)との関わり方がまったく違ってくるのではないだろうか。

*

 『愛と心理療法』を読み進めるなかで、『女の一生』についてのある部分に対し、ひとつの思いが浮かんだ。
 キクは浦上村で生まれ育った少女で、隣の郷の若者(清吉)に恋をした。はじめは相手が切支丹の信仰を守る部落にあるというのを知らないまま、幼い恋が芽生えて、成長していくなかでだんだんそうとわかってくるのだけれど、キクのその清吉への想いはとめられなかった。物語の中で、彼女はけっこう辛い人生を歩んでいくことになるのだけれど、その生涯で貫き通したのは彼女自身の信仰だったのだ。
 惚れた相手が切支丹だということについて、もちろんまわりの親しい人たちや家族には反対される。でも好きな人が信仰するからといって自分も切支丹になろうかなどと考えたり、その信仰について理解を示す方向には至らない。うまれ故郷や先祖とは縁を切り、好きな人が敬愛する聖母マリアに悪態をつき、そうやって彼女自身のやり方で愛していく姿が描かれていたのだった。つまり彼女は育った地域の宗教でもなく、好きな相手の宗教でもなく、自分の宗教をもちそれを生きたのだとおもった。さいごまで主導権をしっかりと握って離さなかった。その強さは愛という言葉でも言い尽くせない何かを感じさせる。

 彼女の恋愛や人生に救いがあるのかどうか、読み終えるまではそれが気になっていた点だったし、それについてはまだ言いきれないところが私にはある。でも彼女が貫いた「信仰」は間違いなく彼女自身がその人生において、たったひとりでつくりあげたものではなかっただろうか。そうおもった。

*

 そんなおもいに至った『愛と心理療法』の箇所は、第3部「成長と宗教」のところにあって、そこには成長過程における宗教教育(または単に教育)がもたらすネガティブな部分について、いくつかの症例(もちろん秘密保持のための保護はされている)をあげながら書かれていた。ほとんどすべての宗教には教義というものがあって、伝統とか仕来たりなんかが時代を超えて受け継がれていくのだろうけれど、ある場合にはそれは呪いとなり、その結果不幸に陥るケースもある。運がよければ、あるいはそのひと自身の治癒力によっては乗り越えられるけれど、そうではないケースもあって、それを分けるのは一体何なのだろうか。原因と結果というのは一様に言えないことなのに、わりと忘れ去られがちであるし、みんな何かの神話に頼りたがるようにおもえる。宗教と言ったって、やはり立ち止まって考えること、時代や状況、文化というのに合わせていくらかの方向転換みたいなものもやっぱり、必要なのではないか。自分のあたまで考えること、そういうことの大事さが書かれた章だとおもった。

 そしてまた、『女の一生』のある部分が気になってくる。それは作中でプチジャン神父が漏らしたひとことだ。

(ああ、ここはあまりに暗すぎる)とプチジャンは思った。(あかるい、のびのびとした信仰をこの日本人たちに与えたいのに・・・・・・)

「女の一生」遠藤周作著

 迫害によって絶えたとおもわれた浦上村に暮らす切支丹とのめぐり会いは彼を喜ばせた奇跡の出来事だった。だけれども、まだ信仰の自由が認められない状況下で、切支丹たちにとっては死んだ肉親、家族が天国に行けるかどうか、その一点が気がかりとなっていた。まだそのころは奉行所の命令で檀那寺のお経で葬儀をしなければならず、死に際して神父に祈り(オラショ)を唱えてもらえなかった肉親をもつ男の恨みがましい態度に、プチジャンは慰めを口にしながらもやりきれない想いを抱えたのだった。

 あかるい、のびのびとした信仰。それは理想としては理解できるし、すてきなもののように思える。でもたましいの成長というものを考えたとき、その"あかるい、のびのびとした信仰"がはじめから終りまで続くことを私にはうまくイメージすることができない。あの時代の宣教師たちのおもいはほんとうはどういうところにあったのだろうか。信仰をもつこと自体はイイコトでも悪いコトでもないし、そしてそれは特定の宗教である必要もない。ただ何より自分で考えることを放棄してはいけないとおもう。それはつまり主導権を渡してしまうことになるのではないだろうか。

三尺牢/乙女峠マリア聖堂

 この2冊の本を同時に読むことになったのはまったくの偶然なのだけれど、別々に読んでいたらこういうことに思い至らなかったかもしれない。そう考えるとふしぎなめぐり合わせだよなとおもう。まだ自分のなかで消化しきれない部分も多いとはいえ、この2冊からは新たな問いかけを得たとおもっている。
 こういうことって、あるんですね。

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,975件

#探究学習がすき

7,433件

サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。