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日本人的心性のふしぎ

 ついきのうまで、民俗学に関する本を読んでいて、いろいろのことを考えた。ひとつに、日本人の、輪廻的、円環的な人生観というのにふと思い出したことがある。

 うちの母親は色んな意味で宗教的な思想や思慮深さなどがないひとなんだけれど、たびたび私にむかってこんなことをいった。

——つかさはわたしのばあちゃんの生まれ変わり。

 つまり私にとってはひいばあちゃんである。誕生日が同じなんだそうで、きょうだいのなかで私だけひいばあちゃんに抱かせられなかったのを残念がりつつ、こういうことを母はいった。
 いつも、ふうんときいて、すなおに受け入れるというのでもないながら、違和感もとくに感じていなかったようにおもう。小さいころなどそんなもんなんだな、くらいにおもっていたようだ。

 しかし改めて考えてみると、そんな、同じ一族のなかで延々生まれ変わるなんておかしいんじゃないか。世界はひろくて、国も時代も性別もさまざまなのに、またウチの家族になるなんて御免である。(っていうかもうこの生でじゅうぶんなんだけど)

 いまでも母は、親戚や知人の間で生死が起きると決まってこの方面の話題を口にする(結びつけられる生と死をさがす)。母のように、宗教心やそのあたりに強い関心のないひとでもこんなふうであるというのは、なるほど日本人の人生観のなかに無意識に、冒頭の輪廻的、円環的な意識が存在することを示す事象なのかもしれない。

*

 心理学者の河合隼雄さんが、「天地始之事」というかくれキリシタンが伝えた文献では原罪が消滅していることについて、日本人の人生観とかくれキリシタンの信仰とをつなぎ合わせて述べている。それはこの、日本人の人生観によるものではないか、というのである。

   どんなことをやっても、なんとかやっていたらまた元へ帰ってくる。しかも隠れキリシタンの人たちは踏み絵ということがあったから、許されるということがなかったら生きていけなかったのではないでしょうか。
 許されることがなかったら生きていけない。年に一度必ず踏み絵の罪を犯すのだから、それは一年かけて償おう。原罪という重い罪もある「そうだ」が、一年かけて熱心に毎年の罪を償い、それを四百年も続けることで許していただこう・・・・、デウスのパライソにむかって一直線に進んでいこうとしない、元来が仏教心性の人々は、そう考えるのが自然だったように思います。

「講演集 物語と人間の科学」河合隼雄

 河合隼雄さんは仏教心性としているけれど、もしかしたら仏教が入ってくる以前から、日本人というのはこういう心性をもっていたのかもしれない。

 こんなことに続いて、日本人が、仏教やキリスト教のような救済をもった外来の宗教に、何をみてどう感じ、そこに近づいていったのかがちょっと気になりだしている。

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