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考える時間を作る

こんにちは、Jinkingtoshです。

今回は、「考える時間」をテーマに記事を書きたいと思います。

実のところ、僕自身は物事を考え過ぎてしまう傾向にあります。「思慮深い」と言ってしまえば聞こえが良いですが、そんな自分に時折苦しめられていました。

された行為や言われた言葉を受けて、その真意を汲み取ろうとしては「そんな他意はない」。その繰り返しです。言葉を真っ直ぐにその言葉として素直に受け取ることがなぜかとても難しくて苦手です。親からも「考え過ぎだよ」と笑われてしまうほどでした。時には、思考の負の連鎖に巻き込まれ、落ちていくこともあります。

それでも僕は思考の放棄は罪だと考え、考え過ぎる自分を受け入れるようになりました。

それは恐らく、自身の難儀な性格によって、他者の行動や言動に度々苦しい思いをしてきたことに起因すると思います。友達や先生の無意識でありながらも遠回しに僕を苦しめる結果になってしまったような行動に対して「なんであんなことをしたんだろう」と考えたり、正確な言葉選びがされていない言動を受けて「どうしてあんなことを言ったんだろう」と考えたり、それでありながら意外にも相手にはそんなつもりはなかったりして。そのような経験を通じて、僕は自分の思いが自分の意図しない形で誰かに伝わり、それが巡り巡って誰かを苦しめてしまったり、嫌な思いをさせてしまったりする可能性に、強く怯えるようになりました。自分も似たようなことをしてしまっている自覚があり、その後もその事態を避けていくことの難しさを実感したからです。

そして、相手が何を伝えようとしているかを掴もうとする思考や、何かを伝えようとする時にその内容が直接的ではなくても、その相手や第三者を傷付けるきっかけを作ってしまう可能性を探る思考、どの伝え方が誤解を生みにくく適切に思いを伝えることに適しているかを知る思考、そういった類の思考が不可欠であると考え始めます。今思えば、コミュニケーションのツールの一つとして、自分の心を信じていたのかもしれません。

だから、自分以外の他者と共生していく以上、それらを含めたすべてに対して「考えない」という選択肢をとることはあってはいけないことだとどこかで思っていました。例えば、一つの物事に対して、AとBという対立した考え方があり、自分がAを強く支持していたとしても、そこにはBを支持している人もいるし、AにもBにも当てはまらないCという考え方を支持している人もいる。多くの場合はそれだけに留まることはなく、AとBの要素を併せ持つDという考え方もあるかもしれないし、C寄りのAという考え方もあるかもしれない。どれがマジョリティーであるかなどは一切関係なく、自分がAを支持するためには決して妄信せずにその他のあらゆる考え方を知った上で、理解し合い、精査できる思考力が必要になってくると思います。自分が支持する考え方ではない考え方を知ろうとしないことは考えないこと、つまり思考の放棄です。それがなぜ罪であるかと言えば、それは誰かを苦しめることになるからです。

しかし、そんな僕にも変化が訪れつつあります。

現代はインターネットが普及し、いわゆる情報革命も完遂を迎えつつあり、ほぼすべての人がかなり多くの時間をインターネットと共に生きていることと思います。これは僕がネット依存の傾向にあるだけかもしれませんが、仕事中は言うまでもなく、隙間時間さえインターネットに支配され、オンラインを生きています。通勤や通学の時にはスマートフォンをいじります。掃除や洗濯などの家事を行なう時にはYouTubeを垂れ流しています。自宅で食事をする時にはNetflixやAmazon Primeで映画やドラマを観ます。散歩の時にはサブスクのサービスを用いて音楽を聴きます。

これは結局、思考を停止するのに都合が良いんです。思考を働かせることによって疲弊してしまうことも自分を苦しめてしまうことも往々にしてありますし、深く考えずに楽しむことができるツールは非常に心地が良い。

しかし、そうなってくると僕はいつ物事を深く思考するのか。オンラインの状態にある僕の意識は分散されていたり、次々と受信する情報の波に踊らされていたり、熟考できず結論が出せないまま他のことを考え始めたりする。そんな風に考える時間を放棄しつつある自分がたまに酷く怖くなります。

自分の将来のことも、目の前の課題や仕事のことも、仲が良かったはずの誰かとのいざこざも、大切な誰かとの出会いや別れも、なあなあのままに時間を過ぎ去らせてしまって良いはずがない。そう思うと、いかに思考力を自在に操るための時間を意識的に作っていけるかが、今後の人生の鍵を握ってくることと思います。

後から振り返った時に、あの時はあまり考えて行動できていなかったとか、あの時はあまり考えて発言できていなかったとか、そんな後悔はしたくない。取り留めもない些細な一つ一つにしても、自分の足りない頭をフル稼働して、考え抜いて出した答えだったと思いたい。そうすれば、過去の自分に少しは寄り添ってあげられるのかなと思います。

例えば今これを読んでくださっている方は当然パソコンやスマートフォンを使用し、オンラインの状態にあることと思います。自分としては本当に有り難い限りではありますが、この記事を読み終えた時に、次の記事に移ったり、他のアプリを開いてしまう前に、一度パソコンを閉じ、スマートフォンを置き、例えばこの記事を通して何を伝えたかったのかを考えてみてください。意外とこの記事は、大したことを言っていないどころか、この記事を読んでくれている方々に対して読むことを止める提案をするという謎な行為を行なっているわけで、つまるところ、何の為にこの記事を書いて投稿しているのかという疑問が生まれるかもしれません。はたまた、まったく関係のないところにまで思考を派生させ、全然違うことを考え始めているかもしれません。そうなった時にどのような答えを出していくのか、とても興味があります。

あなたの膨らみ過ぎた思考を、良かったらコメント欄で聞かせてください。

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