母の死に意味を求めないと決めた15歳の時のこと
──遠い昔の会話が、記憶の片隅に残っている。
「また栄養の無いものばっかり食べて!」
「いや、栄養が無いことなんてないよ!」
小学生の頃、母と何度となく繰り返したやり取りだ。
ジャンクなおやつを食べているのを見咎められた、大体はそういう場面だ。
──今も昔も、よく交わすやり取りがある。
「◎◎したって、意味ないんじゃない?」
「いや、無意味ってことはないと思うよ」
友人との雑談で、あるいは職場のミーティングにおいて。
その時々において、母とのやり取りをふっと思い出す。
今の自分と母に反論する過去の自分が、重なって見える。
昔から意味を欲しがる子どもだった。
出来事は食材であり、意味は栄養。
食材には栄養があり、それを適切に調理しさえすれば己のためになるのだと、そう信じていた。
糧としなければならない。
そして、血肉としなければならない。
そのスタンスは、基本的に今でも変わらない。
ただ、一つだけの例外を除いては。
30歳になったら記そうと思っていた。
母の死と、それに意味を求めないと決めた15歳の自分について。
***
中学2年生のときだった。
母が癌になったと、電話越しに父から伝えられた。
当時の僕はといえば、実家を離れ、県外の私立中学で寮生活を送っていた。
ちょうど、小説を書き始めた時期だった。図書館で借りた、小説作法を語る本には「登場人物に意味を持たせること」とあった。人生とは物語なのだと、どこぞの小説が謳っていた。
人生において意味がない、ということはない。無意味は無価値と同義であって、それゆえに忌避すべきものだ。いつしか、そんな信条を抱くようにもなっていた。
だから──母が大病を患ったことについて意味を探そうとしたのも、ある種の必然だったように思う。
“お母さんは、どうして病気になったのだろう?”
母は小学校の教師だった。煙草はおろか、酒すら滅多にやらないひとだった。食生活に気を遣い、休日には適度な運動を欠かさない。「先生は生徒のお手本だから」というのが母の口癖だった。
そんな彼女が災難に見舞われたことには、何か特別な意味があるはずだと思った。なければならないと信じたのだ。
闘病しながらも教壇に立ち、生徒に希望を与える──。
そんな物語を、当時の僕は夢想していた。
けれども、そんな願望に反して、母は教壇に立つこともままならなくなっていった。
***
中学3年生のときだった。
その年の9月、僕は地元の公立中学へ転校した。
万一の事態に備えるために。
より具体的に言うならば、母の最期を看取れるように。
季節外れの転校生を、クラスメイトはごく普通に迎え入れてくれた──というより、良い意味で「無関心だった」と言うほうが適切かもしれない。高校受験に本腰を入れ始める時期でもあるし、部活生であれば引退直前のイベントで余計に忙しくもなるからだ。
とはいえ「なんでまたこんな時期に?」という疑問は生じたはずだった。
自己紹介で、前の学校の名を口にしたとき、どこからか「えっ」と声が上がったことを覚えている。元いた学校は中高一貫の私立校で、県下ではそこそこ名の知れた学校でもあった。要するに「なんでわざわざ高校受験しにきたの?」ということだ。
結果として、その「解答」を提示するのにそう時間はかからなかった。
転校してから2ヶ月後の、11月。
僕は、病院で母の最期を看取った。
享年44歳だった。
***
葬儀には、親族をはじめとして様々な人達が集まった。
自分の転校先のクラスメイトたち。
そして、母が受け持っていたクラスの生徒たち。
それから、僕の小学校時代の恩師の姿もあった。
“先生は生徒のお手本だから”
弔問客たちを見送りながら、僕は母の言葉を思い返していた。
その生徒たちは、「お手本」たる母の死から何かを学んだのだろうか。
何か、意味を、感じてくれたのだろうか。
──期待するべきじゃない。
感傷が渦巻く頭の片隅、どこか冷静な部分が、冷ややかにそう告げていた。
自分の転校先のクラスメイトたち。
出会って2ヶ月そこらの同級生──その母親の死に「何かを見出せ」と求めるのは酷というものだろう。
では、母が受け持っていたクラスの生徒たちはどうか。
小学校時代の恩師が涙ながらに焼香をするさまを見つめながら、僕は想像を巡らせる。
母と同年代の彼女。数日前に亡くなったのが母ではなく彼女だったと仮定して、その葬儀に僕が出席したとして──彼女の死に意味を見出すことができただろうか?
否、だった。
悲しみこそすれ、そこに意味は感じないだろうと容易に想像できた。
強いて口を開けば「人生は理不尽だな」という身も蓋もない感想になってしまう。それは、あまりにも哀しいことだと思った。
その期待を向ける先は他人ではなく、自分であるべきだ。
息子という立場からしても、それが自然だと思った。
けれども当の僕も、母の死の意味は分からなかった。
分からないから、考えるしかなかった。
好きな物語の主人公たちは、そうして喪失を乗り越えていた。
己にとっての意味を見出すことで、糧としていた。
願わくば、自分もそうありたいと思ったのだ。
そうして、僕は母の死の意味を模索し始めたのだった。
***
それからというもの、僕は物思いに耽ることが多くなった。率直に表現するならば、ひどくぼんやりとしていたように思う。受験勉強に勤しむ一方で、頭のどこかでは常に母の死について考えていた。
あれは母が亡くなり、数ヶ月もした頃だったろうか。
放課後のことだ。予備校へ行く途中に教室に筆箱を忘れたことに気付き、引き返している途中の出来事だった。
ひどく眠かったことを覚えている。俯いてもいたのだろう、記憶のなかの視界は通学路のアスファルトで占められている。そんな調子だったから、前方から他の生徒が迫っていることに気付かなかった。
突然、肩に鈍い衝撃が走った。ほとんど同時に、舌打ちが聞こえた。そこでようやく僕は視界を上げる。すぐ後ろには、3人の男子生徒が首だけをこちらに向けて佇んでいた。
すれ違いざまに肩がぶつかったのだ。
そう理解した矢先、ひとりがこう言った。
「──そんなんだから母ちゃん死ぬんだよ」
そのまま、踵を返して帰途につく彼ら。
その背中を見送りながら、僕はその場に立ち尽くしていた。
──“そんなんだから”の“そんなん”とは何なのだろう?
考えるまでもなかった。取るに足りない憎まれ口だった。
雑に要約すれば「お前のせいで母親は死んだ」と彼は言ったのだ。
けれども当時の僕は、あまりにも意味を欲しすぎていた。
「そうかもしれない」と一瞬納得しかけて──
「そんなわけがない」と慌てて振り払った。
彼らの顔に見覚えはなかった。他のクラスの同級生か、もしかしたら下の学年か。どうやら自分は「母親を亡くしたやつ」として広く知れ渡っているらしい。
自然と想像は巡る。「母親が死んだのはお前のせいだ」と言う人間がいるならば、その逆を言う者だっているだろう。
「母親が死んだせいで、お前は ___ 」
下線部に当てはまる語句はいくらでも思い浮かんだ。
「体調を崩した」「性格が曲がった」「堕落した」……。
抽象的なそれらはもとより、いの一番に脳裏に浮かんだのはもっと具体的な事柄だった。中3の秋、目下の関心事にまつわる最悪のケース。
「母親が死んだせいで、お前は “高校受験に失敗した” 」
「辛かっただろう、失敗したって仕方ないさ」
そんなふうに慰められることが我慢できなかった。
想像するだけで屈辱的なシチュエーションだった。
母の死が、受験の足枷になったと解釈されることが嫌でたまらなかった。
それだけは絶対に避けなければならないと、強く感じたものだった。
***
かくして迎えた、第一志望校の入試。
模試の判定では、常に合格安全圏を維持していた。
付け加えると、その高校は母の出身校でもあったから、なおのこと気が入った。
試験の手応えは充分だった。
いつも通りの力を発揮することができた。
亡き母に捧げる合格通知。頭の中で描いていたのは、そういう物語だった。
合格発表当日のことは、よく憶えている。
その高校の校門前まで、父の車で送ってもらった。校門からほど近くにある掲示板に向かう。そこには合格者の受験番号が一覧で貼り出されていた。周囲は黒山の人だかりだった。合格を不安視されていたクラスメイトが、友人たちから胴上げをされているのが見えた。人混みに分け入りながら、自分の番号を探した。
一度、二度、三度、見直した。
掲示板に、僕の受験番号はどこにもなかった。
不合格だった。
母に報いることができなかった。
彼女の死を無駄にしたとすら思った。
今にして思えば傲慢にもほどがあるが、当時は本当にそう考えていたのだった。
***
第一志望校に落ちた僕は、別の高校に入学した。
入学式を終えて、一週間後くらいだったろうか。
帰り道の途中、小学校時代のクラスメイトと4年ぶりに再会した。横断歩道で信号待ちをしていたところで、偶然にも鉢合わせたのだった。
たちまちのうちに近況報告会が始まり、懐かしさも手伝ってその場で話し込むことになった。
「A君から聞いてさ。ハチ、新入生代表だって? すごいやん!」
彼に褒められて、僕は苦笑交じりに頷く。
A君もまた小学校時代のクラスメイトだった。そして、クラスこそ違うものの自分と同じ高校に通っていた。世間は狭い。そして、情報が伝わるのは早いものだ。
「あの高校、第一志望やったん?」
僕は首を横に振った。
彼は「そうか……」と言いよどんだ後で「お母さんのこと、大変やったもんな」と続けた。
とっさに、僕は身構えた。話の流れからして「受験の失敗」に母のことを持ち出してくるに違いないと思ったからだ。けれども、彼の口から出てきた言葉は、予想とはずいぶんかけ離れたものだった。
「ハチって雰囲気、けっこう変わったよね。昔に比べて、すごく大人びたっていうか、しっかりしてるっていうか。そういう経験をしたぶん、色々と強くなってるんやと思う!」
確か、そういう趣旨のことを彼は言った。
お前は母の死を糧に前進している、と。
それは自分が求めていた言葉のはずなのに、心はまったく動かなかった。そのことに、自分でも驚いていた。
ふいに脳裏をよぎったのは、中学時代のやり取りだ。
“そんなんだから母ちゃん死ぬんだよ”
次いで思い出されるのは、つい今しがたの会話。
“昔に比べて、すごく大人びたっていうか、しっかりしてるっていうか”
“そういう経験をしたぶん、色々と強くなってるんやと思う”
──昔は、今ほど“しっかり”していなかった?
──“そんなん”だから、母が死んだ?
──母が死ぬことで、僕はようやく“しっかり”した人間になった?
思春期の想像は、えてして飛躍しやすい。受験に失敗したという負い目も、思考の飛距離を伸ばすのに一役買っていたように思う。そうして僕の中に、一つの物語が生まれる。
──自分がダメな人間だったから、成長を促すために母は死んだのだ。
一応の筋は通っているように思えた。思ってしまった。
けれどもそれは、到底受け入れられるものではなかった。
どうして死んでしまったの?
もうこの世にいない母に問う。
それが愚問であることは、痛いくらいに分かっていた。
どうして死んでしまったの、だなんて。
そんなの、当の本人がいちばん訊きたいだろうに。
***
数日後、僕は母の書斎に足を踏み入れていた。
デスクと椅子、キャビネット、それに本棚だけが置かれた3畳そこらの空間は、実際以上に広く見えた。
収納箇所を順々に開けていく。何か遺していないだろうか、遺していてほしい、と思いながら──僕は「遺書」を探していた。
意味が欲しかった。
生前の母が、迫りくる死をどう捉えていたのかを知りたかった。自分だったらどうするか、と想像したとき、真っ先に思い浮かんだのは「書き遺す」ことだったから。
指針が欲しかった。
生前の彼女が、遺した息子の将来についてどう望んでいたのかを知りたかった。こうあって欲しい、どうなって欲しいと母の要望があるのならば、それに丸ごと身を任せてしまいたかった。
格調高い書面でなくていい、せめてメモの切れ端でもあれば──。
一時間くらいは探しただろうか。すべての収納箇所を調べ終えたものの、結局、それらしきものは何ひとつ見つからなかった。その事実に、胸が締まるような心地を覚えた。
いっそのこと、父親に直接訊こうかと思った。
「お母さん、何か言い遺してなかった?」と。
でも、そうするだけの勇気はなかった。
「何もない」と言われるのが怖かったからだった。
***
出来事は食材であり、意味は栄養。
食材には栄養があり、それを適切に調理しさえすれば己のためになるのだと、そう信じていた。
でも、僕には適切な調理法が分からなかった。
どこからどう切ればいいのか、いやそもそも切って良いものなのかどうかすらも。
世の中に売っている、死を用いたレシピ、もとい物語を読んでは「主人公のようにはなれない」と打ちひしがれる。
そうした営みを繰り返すうちに、小説や漫画を素直に楽しめなくなっている自分がいた。しだいに、僕は物語に触れなくなっていった。そして、書くこともしなくなった。
やがて思考は外に向かい始める。
それは、ほとんど八つ当たりとでも言うべきものだった。
「なんであのひとは生きているのだろう」
テレビを眺めながら、あるいは街角を歩きながら。
母よりも長い時間を生きている人々に対して、嫉妬の眼差しを向けていた。
「どうして母は言葉を遺してくれなかったのだろう」
これほどまでに息子が悩むなんて、あのひとは想像していなかったのだろうか? 遺すまでもない、と感じたのだろうか? なんで、どうして──
──お母さんのせいで。
思考はそこでぶつんと途切れる。
八つ当たりの矛先が母にまで向いていると自覚した時、自分が崖縁に足を掛けているのだと気付いた。
これ以上考えるのは、やめにしよう。
高校1年の夏の夜、自室にて。
僕は唐突にそう思った。
踏ん切りを付けたその刹那、ふっと蘇る記憶があった。
***
母が、最後に家に居た日のことだった。
中学校から帰宅して、手短に夕飯を済ませて──予備校に行く前に、母の眠る寝室を訪れた。
父からは、母がその日の夜に再入院するのだと聞いていた。もう長くはもたない、と医者からもすでに聞かされていた。生きている母と家で接するのはこれで最後になる、とも覚悟していた。
寝室は静寂に満ちていた。暗がりのなかに母の寝姿がぼんやりと見えた。僕は一瞬迷った後で、母の横にそっと身を横たえた。一緒に眠っていた小学校の頃を思い出しつつ、五分経ったら出ていかなければと心に決めて──
瞬間、自分の頭に何かが触れるのを感じた。
遅れて、母が僕の頭を撫でているのだと気付いた。
少しの間を置いて、母は歌うように言った。
「どうして こげん かわいかこば うんだやろかね」
──どうして私はこんなに可愛い子を産んでしまったのかしらね。
それは、母のもう一つの口癖だった。
幼い頃から、何度となく聞かされてきた台詞だった。
僕が甘えてまとわりつく時に、決まって彼女はそう口にするのだった。
時には上機嫌に、時には怒ったように、またある時は穏やかに。
布団に顔を埋めながら、僕は歯を食いしばっていた。
自分の腕に付けていたG-SHOCKのアラームが鳴る。
予備校に行く時刻だった。家を出なければ──。
身を起こして、僕は息だけの声で言った。
「塾、行ってくるけんが」
母はゆるやかに手を振った。
「いってらっしゃい」
それが、母と交わした最後のやり取りだった。
***
気付けば、僕は嗚咽していた。
言葉は思い出せる。でも、声色が思い出せない。
たった半年の間に、僕は母の声を忘れてしまっていた。
何もかもが遅すぎた。忘れようのないことを忘れそうになるくらいに、意識の片隅へと追いやってしまっていた、そのことが自分でも許せなかった。
洟をすすりながら、なぜと自問を繰り返して──はっとした。
母の死の意味を、ずっと探していた。
そのために、母の遺言を必死で探していた。
では、僕は何を「遺言」だと思っていたのか。
それは、母による自らの死に対する展望について。
あるいは、遺した息子の将来像について。
母が最後に告げた言葉は、そのどちらにも当てはまらない。
それは、そうだ。
あの言葉は、過去と現在の僕に対する言及だったのだから。
だから、引っ掛からなかった。
──俺は、あまりにも未来に囚われすぎている。
・・
母の死の意味は、分からない。
今の自分には、咀嚼できない。
ならばもう、丸ごと呑み込むしかない。
母の死に意味がない、なんてことはないはずだった。
実際、母の死に意味付けをする人間はいたわけで、彼らは程度の差こそあれ何らかの意味を見出していた。でも、受け入れることができなかった。悪意によるものはおろか、善意の意味付けですら自分は傷ついてしまうのだと、この半年で知った。
この先もずっと、そうなのだろうか。
誰かの創作した母の死のストーリーに振り回されるのか。
誰かに憐まれているかもしれないと疑心暗鬼に陥るのか。
そうして、もの言わぬ母に不安と怯えをぶつけるのか。
──そんなの、クソくらえだ。
創らなければならない。俺にとっての物語を。
あなたはそういう解釈で母のお話を書いたんですね。
自分の書くお話とはまったく違いますけれど──
まぁ、それもアリなんじゃないですか?
そんなふうに、笑顔で受け流せるように。
あのひとは44歳で死んだ。
それが俺は悲しくて悔しくて仕方なかった。
ただそれだけだ、それでいい。
それが、自分にとっての母の物語だ。
俺は意味を求めない。少なくとも、今は、まだ。
ただ、あのひとが息子を愛していたということだけは、それだけは、一生忘れないようにしようと、そう自分に誓った。
***
それからまた、僕は物語に接するようになった。
少し時間はかかったが、また物語を書くようにもなった。
高校2年生に進級してからのことだ。
そして今も、なんやかんやあって書いている。
30歳を迎えた今にして、思う。
過去の自分を振り返って、褒められる部分というのはそう多くはないけれど──あの15歳の夜の判断については、英断だったと言える。
母の死の意味を追い求めていた当時の自分は、その未熟さゆえに周囲を害してもいたように思う。食材を切ろうとして何度も手を滑らせては、近寄る者に傷を負わせていた。そして、言うまでもなく自分自身も。
意味がない、なんてことはない。今でもそう信じている。
濃度の差こそあれ、物事には何らかの意味があるはずだ。
でも、意味は与えるものでもあるということを、今の僕は知っている。
そして、意味を与えない自由があることも。
物書きの末席として、思うことがある。
母が将来についての「遺言」を残さなかったのは、意味で縛りたくなかったからなのではないか。そこに何かしらの物語を強制することを嫌ったのではないか。
物語は、束縛だ。言葉で時空を縛ることで、生まれるものだ。
だからこそ、強固なストーリーは人の心の拠り所となるし、逆に足枷にもなりうる。
そこにきて、母は物語るメリットよりも、デメリットを重く見たのではないか。あえて物語らないことで、息子が物語る自由を与えてくれたのではないか。
そして僕は、今なお母の死に意味を求めていないし、与えてもいない。
もちろん、近しい人の死に自分なりの意味を与えられる人だって数多くいるはずだ。羨ましいと思いこそすれ、非難する気なんて毛頭ない。誇っていいことだ。めいっぱい胸を張るべきだと、心の底から思う。
ただ、僕はそうなれなかった。
本当に、それだけの話なのだ。
***
15歳の時に母を亡くした僕は、30歳になった。
母が居た瞬間を、母が居なくなった時間が追い越していった。
母の死を乗り越えたとは、いまだに思わない。
ただ、呑み込んだだけだった。
消化しきれていないし、いまだに腹の底に残ってもいる。
時折、ひっそりと吐き出しては、じっと眺めてみる。
肉も脂も削げ落ちた「死」は、もはや骨ばかりといった風情だけれど、いまだにそれなりの大きさを保ってもいる。
ひとしきり眺めた後で、僕はそれをまた呑み込むのだ。
ときどき喉に引っかかって、少しだけ痛いけれど。
ただ「痛い」と素直に思えるようになったことが嬉しくもある。
僕は母の死に意味を与えない。
足さないし、引きもしない。
少なくとも、今は、まだ。
かつて共に過ごした日々を反芻しながら。
最後の言葉を幾度も脳裏に浮かべながら。
最期に握った手の温もりを思い出しながら。
他者を憎むでもなく、己を責めるでもなく──
母が居た事実を、ただ悼みたいのだ。
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