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『あとの祭り』

やっとこの日が来た。やっと来たんだ。


 この日の為に新調した深くて黒色の喪服。色っぽい艶の真珠のネックレス、そして対のピアス。透明のネイルはシャネルで、今にも破りたくなるような肌が透けて見える黒のストッキングディオール。化粧は眉とマスカラだけだが、この日のためにエステへ行き手に入れた吸い付くような透明感のある肌をさらに引き立てる。下着は真っ赤なボディスーツ。今日の為だけに20万円はかかった。それだけ楽しみに楽しみに指折り数えて待っていた。今日という日を。30年も。


 私は今年38になる。結婚はしていない。子供もいない。仕事は介護福祉士。

 介護は大変だというけれど私はあまり思わない。むしろ誰かに必要とされるのは心が優しさや愛情で満たされ幸せを感じる。

 なんでだろう。何年も何年も家族に必要とされない人生だった。まわりの子は帰る家があって、そこでゆっくり時間を過ごしたり、自分の存在を大切に思われ大事に関わってくれたり、この上なく愛されたり、ここにいるということを必要されたりするんでしょう?

 職場にはそのすべてがある。と、私は、少なくとも私は感じるのだ。


 今日も明日も、そして明後日も…続くのだと信じている。


 ゆっくり過ごす。大切にされる。愛され、信頼し合う。そして一番私にとって重要なのが、存在を必要とされる。ということだ。


 仕事以外は何の欲がない。特別優しい恋人もいらないし、美味しいものを食べたいとも思わない。必用な分だけ体に入ればそれでいい。私の求める理想は規則正しく仕事のシフトに合わせて起床し食事をし出勤、入浴そして就寝。この繰り返し。これが私の求める理想だ。休日はひたすら眠る。前日夜、眠る前に携帯の充電を切り入眠剤を飲む。嫌な記憶から開放され深く深く眠りたいから。

 休日は食事は取らない。目が覚めた時に1リットルの水を一気に飲む。時間を確認し翌日のシフトに合わせてアラームをセットし入眠剤は飲まずに眠る。


 するとね、ほら。子供の私が後ろにいる。

 もう顔も覚えていない母親とは違う、遠い昔から求めていた自分の頭の中にいる空想のお母さんになりきって「あなたが生まれてきてくれてお母さん本当に幸せ。明日もよろしくね。お母さんお仕事頑張るからね。」こう言ってあげている。毎回。こう言われたかったから。だから言う。子供の私に向かって。伝え終えると強い睡魔が私の元へ訪れる。ゆっくりゆっくりと。足音も立てずに。


ーあなたが生まれてきてくれて本当に幸せー


 「一番言われたかったのにね。言われないまま、ここまで来てしまったね。」私は悲しみの滲む弱い微笑みを作りひとり話した。

 これは目が冷めてから必ず口から出る独り言。その時にはもう、後ろに子供はいない。きっと体の中に入っているのかも。私の。

 出勤日の前夜と朝の始まりはいつもこうだ。そしていつもこう思う。

ー今まで生きてこられたのは多分奇跡に近いー


 携帯が鳴っている。滅多にならない私の携帯。最初どこから、何が鳴っているのかわからなかった。一度切れてすぐまた鳴り出す白い携帯。画面を見ると知らない番号で見覚えもない。意を決して出ようとしたらまた切れてしまった。留守番電話サービスにはなにもメッセージは入っていない。


 きっと、いや、間違いなくそうだ。私はすぐにエステのウェブサイトから予約を入れた。


 これで終わるんだ。生まれてこなければ良かっただなんて考えたり、生い立ちで自分を責めたり、子供の私に優しく声をかけたり、あの人達を恨んで恨んで恨んで恨んで叫ばずにはいられなかったり。それが全て終わる。


 私は、興奮した。


  


 10畳のワンルーム、必用な物しかないこの部屋で一番のお気に入りの籐のチェスト。その上に置いてある化粧用のあまり大きくはない鏡に映った。私の顔は穏やかに微笑んでいた。頬を少し紅くして。いつも顔色が悪く眉間に皺があるのに。

 喪服を新調しよう。本物の真珠のネックレスにピアスも買おう、あの人達が顔を顰めるような下着を着けよう。だってこれは、そう、お祭りなのだもの。

 豆を挽いてコーヒーを淹れる。真冬の外で見る事ができる白い吐息に似た湯気に心を許した。そして頬の位置が上がっている艷やかな顔で珈琲が茶色いステージで踊るのをそっと見ていた。それは美しく円を描き、揺れが凪に変わるのを繰り返す。それは私に愛し合うことを連想させた。明るくなった外を見ながら珈琲を飲む。暖かな苦味のある、香ばしくて良い香りのその飲み物を今までで一番美味しく淹れられたと感じ満たされた気持ちのまま目を閉じた。体の細胞ひとつひとつに染み渡る苦味を幸せに味わう穏やかな朝。きっと私と血の繋がりがある人は、今頃何やらこれやらで慌ただしくしているだろう。


 携帯が鳴っている。現実ではないみたい。この部屋が映画のセットのようだ。


 「はい。」私は電話に出た。


 「何回かけてもかけているのにどうして出ないのホント馬鹿な娘だよあんたは昔っからそうだったグズだし笑いもしない当てにならないうちの恥な娘だよ少しはマシになったかと思ったらなんにも変わらない育てるのにかかったお金倍にして返してもらわなきゃ割に合わないわ聞いてるのかいうんともすんともいわないんだねなんの為の電話なんだかわかりゃしないねあんたの父さん死んだから葬式くらい手伝いに来なさいよ身内にはいいとこに努めて給料取りも良いって話してるんだから私の娘らしく上品にしなさいよ聞いてるのかい!」

 「はい…」

 「切るよ。」


 相変わらず早口で怒鳴るように話す母。声を聞いたのは何年ぶりだっけ。私は職場に身内に不幸があったことを伝え有給を取る電話をした。

 「はい、草間です。どうしましたか。」

この日の夜勤者は施設管理責任者の草間 聡だ。声はいつでも穏やかで背も高く入居者様からも同僚からも憧れの存在だ。私は憧れや恋愛に興味がないのだが、草間 聡は会社の中で一番信用出来、仕事もスマートにこなす彼は人間として先輩として目標にしていた。

「お疲れさまです、大宮です。実は身内に不幸がありまして…」

「それは大変だ、失礼だけど親御さんかな。」


「…はい。父親が。」

「辛いね…何か僕に出来ることがあれば言って欲しい。話も聞くから。まだ受け止められないかもしれないけれど、悲しくて泣いていいんだからね。」

「いいえ、もう何年も疎遠だったんです。」

「…知らなかったよ、そうだったんだね。でも気持ちがぐらつく時が来るかもしれないからその時は電話でも、もちろん会ってでも話を聞くことが出来るから教えるんだよ。大宮さんは有給かなり残っているから今のうちに使っちゃいましょう。葬儀など終わってからゆっくり時間を取って体も心も休ませて下さい。」

「…ありがとうございます。」

私は電話を切った。


 草間さんの穏やかな声、珈琲の良い香り。この部屋は天国に違いない。時計は午前8時を知らせている。もう少しこの心地よさに身を委ねたいと思う朝だ。心地よさに身を委ねたいなと感じている自分に驚きながら。

 目を閉じてぼーっとしていた。子供時代を思い出しながら。2歳下の弟が生まれる前までは、きっと両親に可愛がってもらっていたのだと思う。物心がついてからの記憶は痛くて苦しいものばかりだ。誰も助けてはくれなかった。学校の先生でさえ見てみぬふりをした。一度だけクリスマスにー確か小学校3年生の時ー子供向けの漫画雑誌を両親に貰った事がある。弟は毎年ゲームやら洋服やらプレゼントしてもらっていたが私は初めてだった。包装も何もしていない輪ゴムで止めただけのその漫画雑誌を見て声を殺して泣いた。嬉しくて。あの漫画雑誌はどこへ行ったのだろう…

 そう考えていると時間はあっという間に過ぎもう出勤の用意をしなければならない時間だった。慌てて顔を洗い、化粧水と日焼け止めクリームだけを塗る。入浴介助用の着替えとストックしてある菓子パンを急いでベージュのトートバッグに詰め込み髪をひっつめ、コンタクトはつけずにー急いでいたのでー眼鏡をかけて慌ただしく家を出た。家賃38000円の古いワンルーム。

 


※毎週月曜更新…



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