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怖くて苦手でどちらかというと嫌いだった祖父への詫び状

もっと早く聞きたかった。
そう思い、詫びたい事があります。

『騒ぐな!うるさかろーもん!!』

『Norikoがふざけるから皆がふざける。黙っていなさい』

7人兄弟の末っ子として
大分県日田市の材木を扱う家に生まれた祖父。
1番上の兄とは親子ほども年が離れていて、
途中に戦争を挟んだ背景が良く見える。
末っ子だからと言って甘やかされて育ったわけでもないらしい。

大きな背中の兄弟姉妹の後ろを
ずっと見ながら育った祖父。
戦争中は海軍に所属して大きな船の大砲係をしていたという。

私が知る祖父の記憶は少ない。
と言うのも私が小さいな頃からずっと入退院を繰り返していたからだ。

築炉工として、左官職人として
戦後の日本を北海道から鹿児島まで
1年じゅう家を空け働いていたそうで、
当時は相当稼いでいたとも聞いたことがあります。
家に帰ってくるのはお正月だけ。
日本各地のお土産を持って帰ってきてくれる祖父が楽しみであったけど、それ以上に凄く恐ろしかったと、博多の叔母は話してくれました。

『帰ってくると小遣いはくれるしお土産もあるけど、家の中がぴりっと静かになると言うかね。背筋が伸びると言うかね』と。

確かに祖父は職人気質バリバリの人でした。
しかも末っ子で自分より幼い者と暮らしたことが無いので、子どもが大の苦手。

私の中の祖父の記憶の始まりは、
祖父が退院してくる、と言うものです。

私は小学2年の時から鍵っ子でした。
祖父が当時熊本の病院に入院していて、
毎日祖母がバスと電車に乗り継いで見舞いに行っていたので、一つでも乗り換えをミスってしまえば、私はずっと家の前で待ちぼうけでした。

それで家の鍵を渡されたのですが、
がらんとした誰もいない家に帰るのは、
どこか薄気味悪くて、いつも玄関前の階段に座ってぼんやりと時間をつぶしていました。

それが祖父が退院してくると言う事を聞いて、
私は少しワクワクしていました。
だって友達の家のおじいちゃんは凄く優しいんだもん。
一緒に駄菓子屋とか行ってくれたり、虫取りしたり。

当時、祖父は肺と初期のパーキンソンを患っており、結核ではありませんが、私はお見舞いと言うものに行った事がありませんでした。
当然祖父がどんな人かも知りませんでした。

祖父が帰ってきた日に
そうそう食らったのが、冒頭の言葉でした。 
いつもの様に学校から帰ってきて、テレビを見て笑っていたら怒られたのです。

『え?笑ったらいかんの?』
頭の中が沢山のハテナでしたが、『声を出して笑うな』『黙って食え』『子どもは寝転がるな』

それはそれは祖父のルールは凄まじくて、
祖父が退院して1週間も経たずに
私は祖父が大嫌いになるのです。

祖父は自転車に乗って
お豆腐屋さんに6時から散歩も兼ねて出かけます。日中は家から少し離れた畑を借りて野菜を作っていたので、これまた自転車に乗って出かけます。

祖父が居ない時間は天国で、居ると地獄でした。

『畳の縁を踏むな』『ドアは静かに閉めろ』『上座に座るな』『仏壇に尻を向けるな』

今だと、『あぁ分かった分かった』と思う事も有りますが、10歳ならない子どもにしたら単なる"いちゃもん”でしかなく、私の行動すべてが駄目かと本当に顔も見たくない、声も聴きたくない、出来るだけ一緒の空間に居たくないと、出来るだけ祖父を避けた生活になりました。

食事も毎日お通夜の様に静まり返っています。

1年ほど祖父は家で暮らしましたが、
パーキンソンが悪化してまた入院となりました。

性格の悪い私は間違いなく、
ほくそ笑んでいました。
あぁ良かったと心底思いました。
これでまたのんびり出来ると。

祖父の入退院はしばらく続いたのですが、
私が5年生になり祖母も軽い脳梗塞をやったころから、もう寝た切り状態でした。
行っても目も動かず、聞こえているのか何なのかよくわからず、祖母や父たち兄弟で決めた胃ろうで生きている様な状態でした。

結局、
時代が昭和から平成に変わる時に
祖父は亡くなったのですが、私はお葬式の時も何なら遺骨を拾う時も、涙の一粒も出ませんでした。

だって好きな要素が一つもなかったのです。
顔を見れば何かを言われる、それは必ず文句であって、怒られる事。
それが嫌でろくにお見舞いにも行かなかったし、気が付けば寝たきりの祖父になって話も出来なくなっていたのですから、祖父の思い出と言っても
一方的に怒られた事だけでした。


祖母も当時入院していて、
父も忌引きから仕事へと戻り、
納骨するまで、鍵っ子の私は祖父の骨と一緒。
しかも選りに選って
そんな時に父の夜勤なんかも入る。

思えば祖父と2人きりで過ごしたのは
この時が皮肉にも初めてだったと思います。

祖父が亡くなって
しばらくした頃に、祖母も一時退院になり
博多から叔母が手伝いに来てくれた時です。

中学生だった私は自分の部屋にエアコンが無く
暑い時は夜中じゅう、台所で勉強をしていたのですが、
叔母が
『まだ起きとったん?』と
起きたついでにお茶を淹れてくれました。

ふと祖父の話になった時、叔母が意外な事を
言ったのです。

『父も仕事ばっかで子どもに慣れてなかったやろ。だけん孫のNoriちゃんにも、どうしたらよいか分からんだったんよね』

いくら子どもと接して無いからと言っても
顔を見れば文句ばかり
何か壊れたり無くなったりすると
違うと言っても
こんな事をするのはお前しかおらんと
勝手に犯人扱い。
そんな事が毎日だったんよ、と愚痴ろうかと
思っていると、

『Noriちゃんが学校から帰ってくるのが少しでも遅いと、じっとしてられんのか、曲がり角の電信柱まで歩いて見に行きよらしたとよ。姿が見えたら、慌てて帰ってきよらした。一緒に帰ればいいのにねぇ』

叔母は笑って言いました。

え?初めて聞いたよ、それ。

『そうやろう、いちいち言わんでよかって怒鳴りよったけんね。私達も言わんよ』

そんな事、しよらしたったいね・・・。

『そうそう、りぼんもね、Norikoが好きやけんって毎回買いよらしろーが』

え?りぼん買ってくれよったんは、じいちゃんなん?
付録やら散らかるから嫌いって言いよらしたよ。

『あー、外ではそげん言わすとたい』

そう言って叔母は懐かしい記憶を思い出しながら
話してくれました。

何一つ知らなかった祖父の事。
ただの口うるさい人としか思ってなかったのに。

『若か時もね、給料を母に全部は渡しよらっさんでね。実は大分の兄さんや姉さん達にも送りよらしたとよ。うちには内緒にしといてくれってね。そのお金で修学旅行に行けたとか進学できたとかね、大分に行くとよぅ言われよったたい。母も知らんぷりを貫かしたよね。まぁそんな時代の人達やろうけんね』


亡くなってから知るって
何て残酷なんだろうなと思いました。
生きてる時に聞きたかった、
そう言うと叔母は少し申し訳なさそうでしたが
叔母を責める事でもありません。

祖父は私のことが大嫌いだと思っていました。
だから私も祖父のことが苦手で
好きではありませんでした。

祖父が亡くなった時、
大分から従兄弟だと言うおじさんや
おばさん達がゾロゾロ来て
『ありがとう』と口々に母に言うのを
不思議に思っていたのは
理由がありました。


もっと話せば良かった
そう今も思っています。
生きている時に
祖父と意思疎通が出来なくなっていたとしても
身体がこの世にある時に
もっと話せば良かったと後悔しています。

不器用と言えば、きっと祖父は不機嫌になるでしょう。
でもどう扱って良いかわからない対象に
大声で怒鳴りつけてばかりだったのは
不器用だったよと祖父に伝えたい。
そんな事に気が付ける年齢じゃなかったし
器用な私でもなかったよと。

でも嫌っていたのは本当だから
それはごめんなさい。
それに心配してくれてありがとう。
学校まで歩いて3分の距離を
それでも寄り道しちゃってたんだよね。
それとりぼん、買ってくれてありがとう。
友達と付録の交換とか凄く楽しかった。

伝えられなかった私の言葉たちが
祖父に届きますように
あちらでは
穏やかだけど
一本筋の通った祖母と
うまくやってくれている事を
願っています。



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