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猫大福のもぎり 1皿目『鬼太郎誕生・ゲゲゲの謎』~昭和31年から現代にむけて~


はじめに:
 映画館で一度は観たのだが、Amazonで無料視聴できるようになったのであらためて視聴。映画館ではわからなかった部分、見落としていた箇所が明らかになったので違う感想も出てきた。その感想をもとに考察も交えてレビューをしてみたいと思う。いまさらと思われるだろうが、好きでやっているのでご勘弁を。内容は気になった部分だけをまとめてみた。かなり自分の意見というか感性も入っているので突っ込みどころもあるだろう。そういう人は是非ともコメント欄で容赦なく突っ込んでほしい。他人からの批評は貴重な物差しになる。それでは簡潔に述べていく。



「昭和31年からの激励」

 劇中で主人公の水木やゲゲ郎の台詞に現代の日本社会でも通じるような教訓、あるいは訓戒めいたものがある。
『他人と同じことをしても生き残れない』
『変化を恐れて新しいものを潰そうとする者がいる』
『弱い者はいつも食い物にされ、馬鹿を見る』
これらは現代日本でも十分に通じる台詞だろう。日本は他の国と比較すれば貧富の差は激しくないと言われている。確かに、他の国と比べれば、だ。だが貧富の差はちゃんとある。わかりにくいだけだ。見えないがその差はしっかりと昔からあり、現代まで継承されていることもある。
自動的に富が懐に入るシステム、『既得権益』というものがある。このシステムは昔から脈々と紡がれて来ている。変化を恐れる者はいつの時代にもいる。劇中の昭和31年にも、現代にも。

 何を怖がっているのか。
 当然、構築された『金のなる木=既得権益』を破壊されることだ。その木は幹の部分は綺麗に手入れされているので文字通り、綺麗に見える。しかし根の部分では地面を這っている人間がこさえた利益を吸い取っている。吸い取った養分は幹を通って木の上部にある花に集まる。その花の蜜を社会の不当な勝ち組、もしくは支配層が舐め取っている。花は高い場所に咲いているうえにたくさんの葉っぱで隠されている。地面を這っている人間達にはまず見えない。稀に気づく者もいるが。

 水木は地面を這い回っているタイプの人間である。そして戦争という極限状況で利用されることへの屈辱と無力感を味わっている。それをバネにして上に、支配者層に成り上がろうとしている。そのために危険な仕事を自ら引き受けたのだ。他人と同じ仕事をしていても得られるものはない。他人と差をつけたければ、勝ちたければ何かを犠牲にしなければならない。現代の日本社会を生きている若者にそんな覚悟はあるだろうか。仕事で成功して名を残す、大金を稼ぐ、会社を大きくする、そんな野望はあるか?大金を稼ぐことに関してはまだ残っているが、会社を大きくして名を残す、そんなことはもはや死語であろう。そんなことに自分の貴重な人生の時間を使う気になどなれない、そんな言葉が聞こえる。それよりもなるべく自分の時間を確保して、好きなことをする。給料より出世より、自分の『自由時間』が何よりも大切。若人の大事なものが時代の流れで変化したのだ。

 だが、ほんとうにそれでいいのか?
 挑戦しなくていいのか?
 劇中の水木の呟きは現代日本の若人への叱咤激励ではないだろうか。他人と同じことをするのではなく、他人がやっていないことを見つけてそれに果敢に挑戦する、そうやって他人を出し抜く。出し抜きまくって『上』に行かないと利用されるだけの人生で終わるぞ?
そう警告しているように見える。

 現実でその気持ちを持続させるには、ただの上昇志向だけでは難しいかもしれない。それなら『好きなこと』を見つけ、その分野で頂上を目指してはどうだろう。もしかしたら一角の人物になれるかも。
劇中の最後、けっきょく水木は『木の上の花』を手に入れることはできなかった。いや、自ら放棄した。自分の中にあった『矜持と良心』に従って。

欲しかったものを捨てた水木


 自分としてはあのエンディングでよかった。やはり主人公はそうでなくてはと思う。自分自身が主人公なら、どちらを選ぶだろうか。他の視聴者はどちらを選ぶだろうか。他人の意見を聞いてみたい。

「戦後の日本を支えた戦力」

 劇中の時間軸は戦後間もない昭和31年。焼け野原になった東京、日本はゼロから再び築き上げなければならなくなった。敗戦国の一員となった日本が戦後復興のために大きく助走しはじめていた。そんな日本を支えたのは生き残った、あるいは帰ってきた日本国民。
劇中で水木が勤める会社の社長曰く 『まだ戦争は終わっとらんのだよ』

 
38式歩兵銃を抱えて戦場を練り歩くことはもうない。だが経済活動、つまりは仕事での戦いがまだ続いている。国内ではもちろん、海外へ向けての経済戦略が日々うねりを上げている。国を再び豊かにする。明治時代の富国強兵と同じ思いを胸に戦う。そんな激動の中で必要とされるのは命がけで仕事をする人間、過労をものともしない企業戦士が求められた。しかし誰しもがナポレオンのようにはいかない。疲れれば効率が落ち、限界になれば倒れてしまう。

 そんな時、戦場で不死身の如く戦い続ける兵士がいるという噂があった。水木が戦場にいる時はただの与太話と思っていたが、それは実在した。今作のキーアイテムにもなっているとある『薬』。劇中ではっきりと明言はしていなかったが、おそらく、現実でいうところの『ヒロポン』のことだろう。疲労がぽんと取れるからその名が付いたと年配者の方から聞いたことがある。中身は一種の覚醒剤。昔は軍民問わず広く使用されていたらしい。当然今ではご禁制の品だ。打ちすぎれば廃人になる悪魔の薬。そんな危険な体力回復アイテムを使用してまで会社に尽くそうとしていた。今なら馬鹿にされるが、当時はそれが当たり前の価値観だった。そんな人達であふれていた社会だったのだ。そんな人達がたくさんいたからこそ、日本は焼け野原から復活できたのだ。それこそ不死鳥の如く、輝かしい発展を遂げた。

Mは『麻薬』の頭文字だろうか?

「悪人不要論」

 事件・物語の元凶であり今作のボスとして最後に登場する龍賀時貞翁。彼は当時の刑法にも人としての倫理にも触れまくっている。完全に人をやめている狂人の行動基準である。そして彼のあとを継ごうとしている親族たちもまた常軌を逸している。物語上は悪役としての立ち位置だ。彼ら一族がいなければ犠牲者は出なかった。しかし、彼らは復興途中の日本社会には不要だっただろうか?龍賀製薬は架空の企業。だが現実には同じような薬を作っていた企業は存在した。その薬のおかげで不死身の兵士、疲れ知らずの企業戦士が生まれた。戦時中は命を捨てて祖国を守り、戦後は祖国復興の源泉となった。綺羅びやかにそびえ立ち始めるビルや整えられていく道路の裏で、密やかに犠牲になっていった人達がいたからこそ、高度経済成長期を迎えることができた。そのおかげで世界でも有数の裕福な国になった。焼け野原だったのが夢の如しである。

 そんな大御殿は善人だけで作れるだろうか。悪人は不要か?
 おそらく無理だと思う。そもそも金を稼ぐということを善悪の天秤にかけて測るのは難しすぎる。『良いこと』をしていては金は稼げない。あんまり言ってはいけないが。小金持ちぐらいならともかく、大金を稼ごうと思ったら他人から搾取しなければならない。その搾取の度合いや範囲を上手く広げていけば企業は大きくなる。中小企業が大企業になる。金持ちは大金持ちになる。金持ちが増えれば、国が富み、栄える。
 これに善悪のレッテルは貼れない。社会が潤わず、生活水準も上がらなければ、国民は貧しいままだ。見る視点、角度、立場によって龍賀時貞翁のキャラクター判定は変わるだろう。

「みんな椅子のために戦う」

 時貞翁は自分以外のすべてを利用し、踏み台にして上り詰めた。その頂きから水木やゲゲ郎を見て、底辺を這いつくばる人生、と蔑む。水木がゲゲ郎に、這いつくばる人生はもううんざりだ、と告白するシーンがある。戦争という大きな時代の渦の中で天に登った時貞翁と地面に落下した水木。時貞翁は国のためとは言っているが、それは自分が頂点に立っている国だ。根底にあるのは『己が一番』である。水木も同じ位置に行こうと野心を燃やしていた。作中で心変わりをして時貞翁の下に付くことはなかったが。
 ここで問われているのは個人の幸せ、社会的な成功、人生の充実を求めるなら、他人を犠牲にしてもいいのか?ということ。(許されるのか?という言い方をよく使うのだろうが、自分はこの言い方が嫌い)
 自分の結論は、良し悪しの判断以前に、個の幸福は他の犠牲の上に成り立つ、と考える。社会のいろんな場所に『椅子』がある。人間関係や順位、階級、言い方は様々だが、ようは居場所と言えばいいだろうか。椅子の数は限られている。そして、良い椅子もあれば、悪い椅子もある。みんなが座りたい椅子があれば、誰も座りたくない椅子もある。あちこちで椅子の取り合いが起こる。それは競争であり、潰し合いだ。みんな少しでも良い椅子に座ろうとする。諦めている者もいるが。自分が良い椅子に座って充実した人生を謳歌しているなら、それを他人に譲るか?譲るわけがない。良い椅子は独り占めに限る。

自分の椅子のために他者を奈落に突き落とした非業のヒロイン


 そして良い椅子に座り続けているということは、座れなかった、今も座れていない他人がいるはずだ。欲しかった玩具、好きな子と恋人、受験での志望校、待遇がいい会社。椅子の数は決まっている。自分が座りたければ他人を押しのけるしかない。それは善悪ではなく、人間としての本能。人間だけでなく、自然界全体のルールでもある。その本能に従って誰もが、すべての生き物が最大限のエネルギーを持って戦っている。あまり深堀りすると際限がなくなるので止める。
 どれだけ良い椅子でもずっと座れるわけではない。人間には寿命がある。寿命が尽きた時が交代の時だ。しかし時貞翁はそれを外道の法を持って破ろうとした。失敗に終わったが。もし、時貞翁のような『黄金の椅子』に座れるとしたら、どうだろうか。
 他人に譲るか? 寿命を受け入れるか? 
 平凡な人生を歩んで、金が欲しくてたまらない凡人の自分には難しい。

あとがき:

 感想文を書こうと思ったのは、ただ視聴するだけではもったいないうえにあまり脳みそを使っていないと思ったからだ。脳みそは使っていないと筋肉と同じで衰えていく。毎日使っていれば活性化されてボケないどころか高齢者になっても若い人と同じくらいの脳年齢を保ったりする。これはもう医学業界ではしっかりと根拠があるデータらしい。脳を活性化させることに最適なものはいくつかあるが、そのうちの2つ、筋トレと感想文。これが効果的なうえに自分にとっても好きなので続けられると思った。筋トレはだいぶ前からすでに実行済み。感想文は今回が初めてだが、なかなかに楽しい。これなら少しは続けられそうだ。しばらくは続行するので、時間がある人はたまに寄って読んでみてほしい。そしてさらに時間があれば情け無用のコメントを残してほしい。
 それでは、ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
 また、別の作品で(`・ω・´)ゞ


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