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考えない方がいいことは、考えない方がいい

急に小泉進次郎文型の
タイトルではじまって恐れ入ります。

いつもの、突発的に
ふと考えていることを
味気なくパッとまとめておくという
「すぐ終わるシリーズ」です。

タイトルですが
似たような言い回しや状態説明に
「下手な考え休むに似たり」や
「考えてもしょうがないこと」
「邪推」
「思い込み」
「考えすぎ」
「歪んだ認知」

などとさまざまありますが
「考える」以外の語や概念の
ニュアンスが少ないほうが
シンプルな気がして
そのまま書いています。

とはいえ正確に書き留めたい
気づきそのもの通りには
ならないので、
ニュアンスでなんとなく
伝わることを目標としています。

「理屈に合わないこと」
「理不尽に感じること」
「スッキリしないこと」
「モヤモヤ」「違和感」
「しこり」「不完全燃焼」
「真っ当に思えた役割期待が外れること」
「言い返せなかったこと」
「正当性が自分側にあると
 証明できなかったこと」

こういうことは
ただでさえ人間の不完全な
コミュニケーションの中で
さまざまな誤解とすれ違いの形で
発生しています。

ネットなど断片的なテキストのみで
投げ合うことが増える中
より溢れかえるようになりました。

言いたいことは
多くの人の直感的認識に反してはいるものの、

「時には」という頻度を遥かに超える頻度で
「考えたら負け」「考えないほうがいい」
「いかなる衝動に駆られようが、
 追求せずに流しておくが正解」
というスタンスが望ましい場面が多いと
実感しています。

このことが実感できる場面は
非常に潤沢にあり、
日々がケーススタディではありますが、

日々の現実に埋没していると、
却って気づく前に衝動的に反応して
また巻き込まれてしまいがちです。

でもこの賢明なルールが適用される場面は
かなり幅広く、なかなか
簡単にマスターしませんので
現実にある複雑なインタラクションではない
もっと単純な関係性の中で
この構造を体験すると
急に腹落ちすることがあるなと
最近思いました。

もっと単純な関係性というのは
「即時性がなく」
「他者のリアルな顔がない」
との2点が満たされる
やや一方的なコミュニケーション行為に
あるものです。

例えば、
小説、映画、論評、研究、ゲームなどの
コンテンツ鑑賞。

これらのことをすると
よく分かる面白いこととは何かを
分析してみます。

まず、初めて何かを読んだり遊んだりしたとき
その人が本当に呼び起こされた
本音に近い感想や実際触発された
心的活動があります。

それらは「触発された」「感じた」
ものですから、浮かんできます。

雑な例ですが、
エアコンを使う季節で、
その人にとって寒くなく暑くない
適温感覚は、
その人にしか持っていません。

鈍感になっているときや
他の優先的なことに注意を奪われたときは
今の温度が自分的にどう感じたかへ
意識が向かないかもしれませんが、
「感じ方」はあります。

もちろん感じ方をキャッチする感度と
感じ方に対する
表現伝達力の多寡はあります。

その場合感想を聞かれたとして

「何も思わなかった」
「ふーん」
「面白かった」
「よくわからなかった」
「なんかいい」

というようなアウトプットに
なりがちですが
それはキャッチできていないか
表現を持ち合わせていないだけであれば、
少なくとも嘘を塗りたくっていません。

嘘を作っていないことに高い価値があります。

本当に感じたことが
その人にとっても
または感想などの共有先として
想定されたまたは実際いる他者にとって
最も価値あることであります。

しかし往々にして
先行して作動してしまうのは
「自分はこう考えるべき」
「自分はこう感じたい」
「こうまとめて映え感想文にしないと」
「コレコレの知識と経験と
 紐づけてアピールするのが良さそう」
「教訓と結論を見出さなければ」
「気に食わないので損した気分を晴らすため
 とことん批判しなければ」

などと言った作為的思考です。
これらは「自ずと浮かんでくる」
本音部分からの感じ方や考え方を
着実に弱体化し抹殺していくものとして
機能します。

やむを得ずに
「それっぽいモノを申さなければならない」
こともありましょう。

でもできることなら
それらはやむを得ないことと分かって
やりたいです。

そして自然な本音が浮かんでくるのを
粘り強く見守り発見する習慣に
「戻った」ほうが、
心も軽くなるし、
感想の質と納得度も段違いになってきます。
(表現伝達力の問題はまた別です)

さらにいうと
作為的な思考は、ストレスです。
他人の通念にストレスと一緒に
流し込まれた思考が内在化して
無意識に定着してしまっていることが
ほとんどです。

ストレスは気づきを生みません。
産みの苦しみとは言いますが
苦しむほどいいものは思いつきません。

正しく苦しむことがあるとすれば、
ストレスをもたらすだけのノイズを
排出して気づきが生まれる空間を
作る泥くさい過程のことと思います。

(別途、表現伝達を磨く苦労、
 他者に見せるか隠すか、
 はたまた分かる人にしか分からないように
 書くかを工夫する苦悩などはあります)

余談ですが
激おこな時やマジつらな時は
パワーが湧きやすいのですが、
結構ノイズが多いものです。
ノイズとストレスが
書いたり喋っていると
言ってもいいかもしれません

強い感情を御して
その本質を表現に出力するのに
やはり感情に埋もれていない場所に
立つスキルが必要となってきます。
渦中にいてはできません。

見事に酔った演技は酔っ払いの言動より
心を動かすリアリティを持つものです。

不幸のどん底にいるように見えて
どこかで他人事のような
飄然としたスタンスの語りや振る舞いが
最も同情や共感を誘発します。

ジャーナリングや書き殴り療法系の
考え方は、ストレスを鎮静化させ
ノイズを排出するためにあると
考えてみてもしっくりきます。

というわけで、
エネルギーを費やしてきたアウトプットに
どこまでの自然な本音が
含まれているだろうかを
点検する視点を持つと、
面白くなるよというお話でした。

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