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アロンエースは頭痛薬じゃない

こんにちは。おおかみの人です。

今回のトップ画像は、(頭痛)薬のシートのイラストを、椿 -TSUBAKI-さん( @fairview_square )からお借りしました。
椿 -TSUBAKI-さんのプロフィールはこちら。


自分の書いた記事のこととか、その内容というのは意外と覚えていないのだが、その中で自分のセクシュアリティについて書いた記事がいくつかあったことは覚えている。

基本的にここで書く記事は、ある一定の価値観をもって書いている、というよりは、その時々に感じたり、思ったり、考えたりしている流動的なことをほとんどそのままの形で書いているので、もしかすると以前に書いた記事と矛盾していることを書いているかもしれないが、そこはご容赦いただきたい。



ここ半年?くらいの間、自分でもよくわからないくらいいろんなことを経験した。ちなみに、わたしの言う「いろいろ」は当てにならない。経験していることの内容的には2つか3つくらいなのだが、そこで感じたり思ったり考えたりしたことが「いろいろ」あったということだ。

その「2つか3つ」というのは、実際に数えてみると4つくらいだったのだが、こんなようなことだった。

①さくら先生の産休
②婚活をやってみて、あんまりうまくいかなかったこと
③元友人の「ツェさん」との絶縁
(④仕事での諸々の経験)

この半年はだいたい、こんなようなことで過ぎていった。後ろの3つについては、以前の記事でも触れたことがあったと思う。


………なんだか自分でもよくわからないのだが、別にこの半年間で劇的に変わったというわけではないのかもしれないにしろ、自分は「変わってしまった」と感じる。

「変わった」のではなく、「変わってしまった」。

それは、自分の中の知識や常識という点もあるのだが、もっとこう…自分について振り返ったとき、自分自身の存在自体が、大きく揺らいで、変わってしまったな、と思う。
まあ別に、もともとの自分が素晴らしかったわけでもないし、何かに後悔しているわけでもないのだが。それでも、「変わってしまった」のだ。


自分の中で変わってしまったことは、言葉に言い表せないものもあるが、ひとつ大きく変わったと思うことが、自分のセクシュアリティである。

いままでは、自分で思う自分のセクシュアリティは「レズビアン寄りのバイセクシュアル」だった。たぶん以前の記事でもそう書いたと思う。たぶん、そのときはそうだと思っていたのだ。

でも…いま思うと、そんなこともなかったのかもしれない。


自分がバイセクシュアルだと思っていた背景には、いままでの経験上、まず男性と付き合ったり、関係を持ったことがあるから、男性に対する興味がまったくないわけではないのだろう、と思っていたことが理由としてある。そして、男性とのことであまりよい経験をしなかった(自分で自分を傷つけるようなことをしてしまった)が故に、男性の存在から遠ざかろうとしていたので、男性に対する興味が薄れている…が、まったくないわけではない、とそう思っていた。

そして女性に関して言えば、体の関係こそ持ったことはないにしろ、付き合ったり、「好きだ」と(そのときは)思ったりした相手がいたし、自分は女性に興味があるのだな、そしてそれは男性に対するそれよりも強い傾向なのだな、と思っていた。

だから、わたしは、自分のことを「レズビアン寄りのバイセクシュアル」だと、結構長い間思っていた。


でも、なんかおかしいな、とも薄々思い始めていた。いつの頃からかわからないが。


それが決定的になったのは、やっぱりこの半年のことだった。

さすがに今の自分の歳で、身を固めないのはおかしいし、ヤバい、と思って、えいっと思い切って始めた婚活。

ひとりの男性とマッチして、何回か会ってデートじみたことをしたのだが。


男性が近くにいる。
触れられる距離にいる。
自分が女として見られている。
女として評価されている。
この人は男で、生殖の本能を持っている。
もし今後この人と結婚することになったら、わたしは子どもを産まなければいけないだろう。プロフィールにも、子どもが欲しいと書かれていた。
そのためには、相手とセックスして、長い妊娠の期間、お腹が大きくなっていくのを見ながら、やがて苦しい出産を経て、自分の身体から出てきた「小さな生き物」の産声を聞かなければいかなくなるのだろう………


………と、思うと、急に怖く、気持ち悪くなった。

その前の話に一旦戻る。

わたしはさくら先生の産休というものを経ているのだが、そのことを知ったとき、わたしはひどく動揺して、パニックに陥ってしまった。
彼女のお腹はかなり大きくなっていて、そこに「小さな生き物」がいるのは明らかだった。

彼女の後ろにある、男性の影。
彼女も人間で、動物だったのだ。
人間の、動物の営みを全うしたのだ。
彼女は「普通」なのだ。

………と、そう思うと、彼女をできる限り避けたい、と思う気持ちが強まってしまった。
やっぱり気持ち悪かった。
彼女の存在自体が、ものすごく穢らわしく感じられた。

………と、いうことを経て、婚活をしていた。

異性が物理的にも、心理的にも近くに存在しているということは、わたしにとっては生殖に直結していて、それはどうしても分かち難いものだ。だから、そもそも女として見られ、評価されるということ、そして男性と「近い」ということ自体があまりにも苦痛だった。

やっぱり、どうしても、無理だった。

この時点で、わたしには、恋愛や生殖の対象としての男性の存在自体が受け付けられないということがわかった。
自分と一定の距離があって、絶対に超えられない境界線があるのであれば、その限りではない。たとえば、いつもお世話になっているにじのまのマスターは男性だが、その人とは仲良くしているし、恐怖を感じたりはしない。あくまで、「近寄られる」とか、「そういう対象として見られている」とか、「生殖に関わりがある」いうことが無理なのだ。


………そして。


元友人のツェさんとの絶縁、ということがあった。

あの出来事を通して、わたしの中での女性観というものは、劇的に変化してしまったと思う。

もちろん、いまのわたしは人間関係には恵まれている方なので、周囲には優しくあたたかい女性がたくさんいる。どれだけ多様性とはいっても、少なくともジェンダーが女性という方なら、そういった優しさとかあたたかさというものを持っている人は少なくないと思う。

ところが、女性にはもうひとつの側面がある。

それは、「周囲の人やものを拘束し、何もかもを飲み込みつくす大きな渦」という側面だ。
このイメージは、ユング心理学でいうところの「太母(グレートマザー)」の負のイメージに近いかもしれない。
わたしにとって、ツェさんはこの「渦」であった。そしてその存在は、わたしの中にある渦と絡まりあって、わたしを影の世界に引きずり込んでいった。

………ということがあり、わたしは(まるっきりすべての女性についてではないにしろ)女性に対する恐怖というものも、相当強烈になってしまった。
それはわたしの価値観を、不可逆的に変えてしまうほどの衝撃だった。


「自分には、恋愛感情がある」
と、どこかで無意識に思っていたものも、脆くも崩れ去っていった。

わたしには、恋愛感情がなく、恋愛を知らない。
そこにあって、恋愛感情、つまり「好き」という気持ちのように錯覚してしまうのは、「人としての尊敬や憧れ」か、「独占欲」か、あるいは、いまはもうどこかに消え去って、避けるべきものになってしまった「性欲」というものだ。

わたしの「いろいろ」が当てにならないように、わたしの「好き」も当てにならない。

そういうことも、やっとわかった。


男性も、女性も、誰でもいいが、恋愛対象として付き合うということが考えられない。
ましてや、体の関係なんて、もってのほか。

そして、それを世の中では

「アロマンティック・アセクシュアル」

と、言うらしかった。


へえ。そうなんだ。

世の中で、ときに「アロマ・アセク」と呼ばれるものに、自分が該当するかもしれない、ということがわかって、少しホッとした。
分類があるということは、それだけ多くの人が、似たような感覚を持っている、ということにほかならないと思う。たとえそれが少数派で、あまり公には知られていなかったとしても。

ただ、わたしは分類というものがあまり好きではない。わたしはわたしだと思うからである。
SEKAI NO OWARIの"Habit"にも、「人は分類したがる」みたいな歌詞があったような。
最近はユング心理学のタイプ論を勝手に独自解釈した、アルファベット4文字に集約される性格診断なるものもあって、いっとき流行ったりもしたそうだが、わたしはそれも嫌いである。

わたしは「アロマ・アセク」の略称があまり好きではない。だって、「アロマ」って入ってるし。わたしはアロマ(香りの強いもの)があんまり好きじゃないし。それに、「セク」と入るのも、なんか抵抗がある。

それで、少し調べてみると、その略称以外に「アロ・エース(Aro/Ace)」という略称があることを知った。
これならアロマも入ってないし、セクという言葉も入ってない!ただ、やっぱりこれも分類する言葉だ。でもこの言葉が嫌なわけじゃない。

で、そんなときに、指先に切り傷ができたので、薬箱を開くと、頭痛薬のナロンエースが出てきた。そのとき、ふと思った。

そうだ、わたしはアロンエースだ。

…なんだかしっくりきた。
悩みの種がいっぱいあるわたしの、悩みを癒してくれそうなこの名前。
思いつきだが、気に入ってしまった。

自分がアロンエースだから、誰かの痛みを癒せるんだろうか。
いや、そんな大それたことはできない…けど。


自分の新たな、いや、もとからあったかもしれない側面に名前をつけることで、自分自身の痛みが、ほんとうにほんの少しだけ、和らいだ気がする。

何より、これまでの経験が、「人間全般」に対する価値観―つまりそれは、「人間不信」ということ―にならなくてよかったと、いまはそう思う。
他人のことをまったくもって信じられなくなったとか、そういうことではないし、まったく他人との関係を避けなければいけないわけではないから。


………頭が痛くなってきた。わたしの薬の効果はここまでだ。


どうか自分の痛みと傷が、徐々に癒えていきますように。
そして、残った傷痕を、ただ笑顔で懐かしむことができるようになる日が、いつか来ますように。






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