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スポーツ観戦とは「想像する」ことだ

連日オリンピックの熱戦が繰り広げられ、毎日日本代表のメダルラッシュに国内が沸き上がるのが伝わってくる。今大会は残念ながらほぼすべての会場が無観客開催となり、テレビ中継やネット配信での間接観戦が中心となっている。しかし、その分複数種目を同時に観戦することも可能となり、自称スポーツ観戦オタクである私は、テレビ・デスクトップPC・ノートPC・スマホと3~4画面で多種目を同時観戦して満喫している。

さて、これまでも大学院でスポーツ観戦について研究してきた私にとって、今回のオリンピックは、その理論を実践に移して確かめる絶好の機会となっている。理論上は、スポーツ観戦をより楽しむためにはある程度の「知識」が必要であるとされている。どの競技の中継でも、簡単なルール説明や選手情報が紹介されているが、今回のオリンピック観戦の中で単に「知っている」だけでは不十分であることが示唆される貴重な体験ができた。本稿はその体験について描写するとともに、おそらく競技経験者がしているであろう”一歩先”の観戦スタイルを提示する。

これまでの卓球観戦

その体験とは、卓球混合ダブルスの決勝戦を観ているときに起こったものである。日本の水谷・伊藤ペアが中国最強ペアに大逆転勝利をあげ、日本オリンピック史上初の金メダルを獲得したことに、感動の涙を流したのは私だけではなかっただろう。しかし、別に涙を流したことが特別な体験だったわけではない。これまでもオリンピックや世界卓球、ワールドツアーなど、卓球観戦を頻繁にしているが、競技経験のない私は、多くの人と同様に「点を取ったか、取られたか」しか観ていなかった。つまり、すべてのラリーにおいて得点することを願い、得点すれば「よし!」、失点すれば「あー。」とラリーの「結果」にいちいち反応していた。

しかし、今大会前に「ある準備」をしていたことで、そうではない別の「見え方」ができたのだ。そして、その見え方ができたからこそ、日本ペアの決勝戦の戦いが「奇跡の逆転劇」ではなく、「計算しつくされた戦略勝ち」だと感じられたのだ。

事前に仕入れた「知識」の質

では、その「ある準備」とは何だったのか。それは理論にあるとおり、競技についての「知識」を得ることである。私は、オリンピック開幕直前に『卓球超観戦術』という本を読んだ。この本では、単純に卓球のルールの紹介やテレビ中継でされるような選手の半生のような情報ではなく、もっと深く専門的な情報が書かれていた。主な例だけをいくつか挙げると、

・ラケットに貼るラバー(赤と黒のゴム)や打つ時の台との距離などによって、選手一人一人のプレースタイルが異なる
・ボールに様々な回転をかけて打ち合い、相手の「ミスを誘う」ボールを打ち合っている
・5球目(自分の3回目の打球)で得点するために、サーブの回転やコースを決めている

など、卓球はまさに「チェス」のように緻密な頭脳戦とそれを実際にプレーする卓越した技術の両方で成り立っていることがわかった。

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そして、トッププレイヤーたちは様々な大会で何度も対戦し合っているため、相手のプレースタイルや得意・不得意といった特徴は互いに熟知している。したがって、技術的な要素よりも戦術面でのかけひき(=頭脳戦)が勝敗を大きく左右しているのだ。これが分かったうえであの壮絶な決勝戦を観ると、実に緻密な作戦が立てられていたことが見て取れた。

相手の男子選手を崩せ

相手の中国ペアは、男女とも元世界ランク1位のまさに”最強ペア”であった。特に男子選手はダブルスで無類の強さを誇っており、彼にしか打てない強烈なスピンがかかったフォアハンドで他国選手を圧倒してきた。左利きだが体の右側に飛んできたボールも回り込んでフォアハンドで打つという大きな特徴があり、力強く振りぬいたボールはわかっていても返せないほどの威力がある。

また、混合ダブルスはゲームごとに打つ順番が変わるため、相手の男子選手のボールを水谷選手が受けるゲームもあれば、伊藤選手が受けるゲームもある。男子選手の強烈なボールを、女子選手がどれだけしのげるかも勝敗に関わる大きなポイントとなる。

では、実際のゲームはどうだったのか(もし可能ならば、以下に書く内容を踏まえてハイライト動画を観てほしい)。第1ゲームは、相手の男子選手のボールを伊藤選手が受けることになった。試合前の想定通り、強烈なフォアハンドに押し負け、伊藤選手はなかなか返すことができなかった。続く第2ゲームは水谷選手が受ける番となったが、そのまま勢いに押される展開となり、あっという間に2ゲームを連取された。

相手男子に「強打」をさせなければいい

従来の観方をしていた私なら、この2ゲームは日本の「ミス」が目立つ展開に映っただろう。日本選手の守備力を中国選手の攻撃力が上回ったという「実力の差」と捉えてしまったかもしれない。しかし、卓球は頭脳戦であると事前に理解していた私は、この2ゲームは日本の両選手とも相手男子選手のボールを受けて「確かめる」時間だったと考えられた。そして、それを裏付けるように、次のゲームから日本が一気に攻勢に転じた。

第3ゲームは再び伊藤選手が男子選手のボールを受ける番となった。しかし、ここで大きく戦術を変えたのは、水谷選手の方であった。リオ五輪のシングルスで同じ中国選手に勝利している水谷選手は、相手の男子選手の「弱点」を見事についた。相手はバック側に打っても回り込んでフォアで返してくるため、打った後は反対のフォア側ががら空きになる。水谷→男子→伊藤→女子→水谷という打順だったため、水谷選手は相手のバック側に角度をつけて打ち返し、相手を大きくのけぞらせて強打を封じた。ボールの威力を落とさせ、伊藤選手が素早く返球できるようした。伊藤選手ボールが相手女子に返されるも、再び水谷選手が大きく空いた逆サイドに見事に打ち込み、完全に日本のペースでラリー展開ができた。

続く第4ゲームでは、再び打順が逆になったが、今度は伊藤選手が持ち味を発揮した。伊藤選手の最大の持ち味は、前陣(台の近く)で返球する異次元のスピードである。伊藤選手とのラリーはとにかくテンポが速く、相手選手はそれに追いつけずにミスをしてしまうことが非常に多い。大きく振りかぶって強い球を打ちたい相手男子選手だったが、伊藤選手の素早い返球を前に十分な準備ができず、甘い球を返した結果水谷選手にカウンターを打ち込まれるという展開が続いた。さらに、後陣(台から離れた位置)から強く打ち込んでくる相手に対し、伊藤選手は2バウンド目が台の近くに落ちるような短いボールも混ぜることで、相手に的を絞らせない配球で強打を見事に封じ込んだ。

このように、相手男子選手に対して左右の揺さぶり、前後の揺さぶりをかけていくことで、完全に日本のペースでラリーを続けることができた。水谷・伊藤両選手が相手男子選手をまさに「集中狙い」することで、日本は3ゲーム連取して逆転することに成功した。

最終ゲームの「最初の2球」でとどめを刺す

このまま崩れないのがさすが最強中国ペア。第6ゲームを取り返し、最終ゲームにもつれ込んだ。しかし、この最終ゲームは「最初の2球」で勝負ありのように見えた。

最初は相手女子選手のサーブを水谷選手がレシーブし、3球目に相手男子選手という第3・第5ゲームと同じ打順。この打順を2ゲーム連取している日本は、完全に攻略法を理解していた。追い込まれている中国ペアは、3球目の強打をさせないために、水谷選手がチキータ(強い回転をかけて速い打球を返すレシーブ)をしてくると予想し、チキータをさらに強力なフォアハンドで返そうと、男子選手はバック側に大きく回り込んだ。これを見事に読み切った水谷選手は、がら空きの逆サイドにレシーブを返し、ノータッチで日本の得点となった。これと同じ打順の次のサーブ、相手男子選手の脳裏には直前のレシーブが焼き付いている。そこに水谷選手は、1球目に読まれていたバック側へのチキータレシーブをあえて打ち込む。わずかに反応が遅れた相手男子選手は3球目をミスし、2本連続で裏をかかれたことで、完全に足が止まってしまった。

頭脳戦で日本が上回ったことを象徴するこの2本のレシーブから始まり、最終ゲームはやりたいラリーがすべてうまくいったような8ー0と大量リードとなった。最後も伊藤選手のロングサーブが相手男子選手のレシーブミスを誘い、悲願の金メダルを獲得したのだった。

この「ストーリー」は空想

いかがだろうか。ここまでの話を読んで、卓球がどんなスポーツなのか、試合中に選手たちがどんなかけひきをしているのかが少しは感じてもらえたら幸いである。しかし、補足しておかねばならない重要なことがある。それは、ここまで書いた決勝戦の戦術は、すべて私の「空想」であるという点である。実際の戦術やそのプレーの意図は、選手本人にしかわからず、観客には知る術はない。試合後のインタビューで回想しながら確かめることはできるが、試合の最中にはそれを勝手に想像するしかない。

しかし、この想像こそが、観戦を一歩先へと進めるうえで重要な役割を果たしていると考える。感動に至るメカニズムを研究した戸梶(2001)は、目の前に発生する事象の「ストーリー」を見出すことが感動を喚起すると指摘している。スポーツにおける感動場面を分類した押見・原田(2010)の研究でも、『劣勢からの逆転』や『ドラマ的展開』といったコンテクストを意識した場面は大きな感動を呼ぶことがいわれている。ここでいう「ストーリー」には2つのタイプがあり、1つは試合展開やゲーム内での形勢逆転など「試合中のストーリー(intra-game story)」で、もう1つは大会までの努力や苦悩などの「試合までのストーリー(inter-game story)」である。

この2つのうち、日本のメディアは後者のストーリーを非常に多く用いる。これはスポーツがラジオ放送されていた時代からの名残でもあり、映像が届けられない中、陸上競技などレース間の「空白」を試合以外の情報でつなぐ必要があった。そこで大会前の選手の苦悩や挫折、そしてそれを乗り越える努力ばなしなど、試合展開とは「関係ない話」を多く伝えるようになり、そこに感情移入した日本人は、姿の見えない選手の活躍を応援するようになった。こうした背景と伝統的な日本人スピリットから、臥薪嘗胆のストーリーは日本人の大好物であり、テレビ中継で映像が流れるようになった今でも、選手の大会にかける思いや努力のプロセスが多く語られている。

なぜ「試合中のストーリー」は語られないのか

しかし、映像で誰もが試合展開を見られるようになった今でも、もう一方の「試合中のストーリー」はなかなか語られることがない。これは上記の2つのストーリーの間に、「理解しやすさ」と「時間的都合」という大きな違いが潜んでいることが原因と考えられる。

試合までの努力や苦悩は、それを聞く私たちにとって自身の体験と重ねるなどして容易に理解できる。また、試合前はたくさんの時間があるため、いくらでもストーリーを「つくる」ことができる。ここで「つくる」としたのは、それらのストーリーが必ずしも「真実」である必要はないからだ。選手がその試合に向けてどんな苦悩を抱え、どれだけの努力をしてきたのかを”正確に”知ることは不可能である。すなわち、すべての選手に対するあらゆる努力エピソードも、それは誰かが断片的な情報から紡ぎだした「想像」でしかないのだ。逆にすべて想像でまかなえるという点を生かして、私たちが想像しやすいエピソードを「つくり」だし、それを共有させることで感動を促している。選手たちのエピソードやストーリーを正しく理解する必要などなく、そこに感情移入できるように想像さえできれば十分なのだ。「理解しやすさ」とは「想像しやすさ」と言い換えてもいいかもしれない。

「想像」しながら試合を観る

前述の卓球決勝戦のような「試合中のストーリー」は、この点でハードルが高い。試合展開からストーリーを「想像」するのに予備知識が多く必要になること、もう1つは試合が進むのと同時にリアルタイムでそのストーリーを「つくり」あげなければならないことがそれを難しくしている。しかし、私が今回”一歩先”の観戦体験ができたのは、このハードルを越えることができたからである。

スポーツ観戦において、その競技の未経験者よりも経験者の方が満喫しやすいことは言われており、両者の観方を比較した出口(2006)の研究では、未経験者は「現象」だけを評価しているのに対し、経験者は「現象」と「実体」を相互に関連させながら評価していると報告された。これはすなわち、卓球において「どっちが得点したか」「スマッシュが決まったか」という『結果=現象』だけを観るのではなく、「どんな狙いがあったのか」「次は何をやろうとしているのか」といった種目特有のかけひきや、「反射神経がすごい」「相手を完璧に読んでいる」などの卓越したスキルを含めた『プレーの裏側=実体』を想像することで、より観戦を満喫できることを示している。

先日の自分の体験を解き明かしてみると、これまで「現象」しか見えなかった卓球が初めて「実体」まで想像できるようになったことが示唆された。この「実体の想像」を助けるのが、競技や選手に関する多様な知識であることは間違いない。しかし、知識を「持っている」だけでは不十分で、持ち合わせた知識を活用して「想像をふくらませ」ながら観戦することが、重要なのだと再認識できた。逆に言えば、「想像する」だけなら、知識がなくてもできるし、先に述べたようにその想像が”正しい”必要はない。今後も日本代表の熱戦は続くので、ぜひとも想像力を駆使した観戦を試みてほしい。

最後に

余談だが、最後になぜこの記事を『New 体育論』に組み入れたのかを述べる。端的にいえば、このようなスポーツの観方を伝えたり、実際に観戦したり体験を、体育で子供たちに味わわせたいというのが私の一番の願いである。スポーツ観戦は、エンターテインメントでもありながら、「知識を蓄え、それらを活用しながらリアルタイムで想像をふくらませて楽しむ」という非常に高度な知的作業であると再定義することができる。体育はもっとスポーツ観戦を歓迎すべきである。スポーツ観戦が積極的に実践される体育が来る日を願って、今後も発信を続けていきたい。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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