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オーバーステイの代償 Chapter 1 カリフォルニアドリーム

1999年の5月、俺はカリフォルニア州のオレンジ郡にある私立大学に入学した。その1ヶ月前に三重県の高校を卒業したばかりだった。地元の仲間に送り出されて、俺は渡米したのだった。

当時サーフィンに憧れていた俺は、大学に通いながら、サーフィンができる場所、という理由で、その場所を選んだ。専攻科目は心理学。正直なところ、サーフィン留学がしたいだけだった。

南カリフォルニアの生活は、日本で慣れ親しんだ日常とは別世界だった。まるでパラレルワールド、異次元の世界だ。俺は次第にその異次元世界の虜になっていた。念願だったサーフィンを始め、有名なサーフスポットでサーフィンしたり、雑誌に出ているようなプロサーファーを海で見かけたりする生活は、夢のようだった。

週末になると、パーティやバーで浴びるほど酒を飲み、アメリカ人の女の子とキスしたりセックスすることもあった。お金持ちのお嬢様のガールフレンドを作ったり女の子とルームシェアしたこともあった。映画で見るような、ホームパーティ、大型クルーザーでの乱痴気騒ぎ、マリファナ、青い目の女の子、大金持ちのパーティ等ひととおりリアルに体験した。いつしか、そんな生活を送っている自分に、俺は酔っていた。

学業も一生懸命に取り組んでいた。俺は裕福な家庭の出身ではないが、両親に愛されて育った。アメリカの大学に留学させてくれた親には感謝していた。18歳で家を出て、親と離れて生活し始めてからは、親のありがたみが身に沁みることが多かった。そんな思いから、両親をがっかりさせない為にも、勉強は一生懸命やろうと決めていたし、実際に勉強はたくさんした。卒業時の成績は、GPA(Grade Point Average)3.3だった。100点満点中88点といったところだ。

英語力に関しては、南カリフォルニアのサーファー節で流暢に話せることが出来た。故に、俺は日系アメリカ人だと間違われることが多かった。日本人は何故か英語が流暢に話せるようにならない事が多いが、俺はその固定概念をぶっ壊す存在だった。この記事を書いている2023年の時点でもそうだが、圧倒的な英語力が俺の武力だったのだ。それが俺の商売道具、Money Maker。これは誰にも負けない自信がある。

運も良い方だ。棚からぼたもち的な出来事がたまにある。高校時代、学業に関して大した努力はしなかった。俺が行った高校は、その地域で下から2番目くらいの学校だった。進学校とは言い難い。その高校で俺の成績はまあまあ良かった。大学1年目に奨学金をもらえる事になった。高校時代の成績に基づいて、優等生だった生徒には奨学金が払われる、というシステムだった。高校時代の俺の成績は、アメリカの大学の書類上で俺を優等生にした。学費はほぼ全額カバーされていたらしい。親からの小遣いが増えたのだ。

その後2003年に順調に4年で大学を卒業した。これで本来はアメリカ生活は終わり。カリフォルニアドリームから覚めて、日本に帰る時間だ。当時の俺にはその選択肢はなく、そのままアメリカに留まって、カリフォルニアドリームの世界を生きることを選んだ。親の言う通りに、日本に帰国して、就職活動をして、そこそこ良い仕事にありつければ、社会的にも世間体的もOKなのだろうが、どうもそれをやっている自分がイメージできなかった。

一つ大きな問題に直面した。アメリカという国で住み続ける為のビザを持っていなかった。大学卒業時点で学生ビザは無効になるのだ。本来は日本に帰国していなければいけないのだが、卒業旅行と称して、仲間とバリにサーフトリップに行った。その後、大学に在学中であると嘘をついて、アメリカに再入国した。書類上は学生だが、実際は無職・フリーター。学生ビザの有効期限までは、余裕で誤魔化せる。1年後の学生ビザの有効期限までになんとかなるだろうとたかを括っていた。この時、特に具体的なプランはなかったが、当時流行していた、Hurleyというサーフブランドの会社で働くのが夢だった。Hurley創業者一族の男が同じ大学のOBで、俺は彼の結婚式に参加したことがあった。そういうご縁があったので、コネでなんとかなるだろうと思っていた。

夢のような大学生活を終えた後の世界ははそんなに甘くなかった。Hurleyで働く夢も、ビザの件もなんともならなかった。なんともならないまま、学生ビザの有効期限も切れてしまった。完全に不法滞在者になった。グリーンカード。米国永住権が欲しかった。米国永住権を取得するにも、不法滞在者にとってそれが叶うのは、くじ引きで永住権に当選するしかない。そんなあり得ない事をあてにするようになっていた。

アメリカという国において、不法滞在者であること、日本人でありながら日本に住んでいるのとは対極的なステータスである。社会における、「その他」の部類の人間。戸籍のない人。存在するはずがないのに、実際にそこに存在している。そんな立ち位置だ。

アメリカに滞在し続ける方法は、ある。不法滞在者でありながらも、不法就労を続け、生き続ける道だ。所謂、修羅の道。実際にアメリカに住んでいるメキシコ人達は、その多くがそんな感じだ。デフォルトの設定が社会の除け者。自分はそうはなりたくない。その道は違う。直感的にそう思っていた。

しかしながら、実際俺は修羅の道を歩み始めていた。修羅の道にもそれなりに成り上がれるパターンは、ある。2003年の夏に不法滞在者になった時は、寿司レストランのウェイターとしての収入しかなく、毎月の家賃と携帯代を払うので精一杯だったが、2007年には、大型クルーザーの乗組員という肩書きを持ち、その界隈では仕事に困らないくらいの信用度を得ていた。年収は400万円くらいだったと思うが、先述のとおり、カリフォルニアドリームを生きていた。貧乏なりにも幸せな生活だった。


そのまま同じ仕事を続けながら、ボート乗りの狭い界隈で自分のポジションを確立しつつ、社会では目立たないように、無難な生活を続けていく道もそれなりに楽しい人生だったのかもしれない。現に、修羅の道を選んだ外国人は存在するし、大金を掴んだ人間もいる。ただし、完全に裏世界の住人だ。裏世界にしか生きられない人生は、嫌だった。

続く


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