『まとめ』歴史を変えた6つの飲み物〜蒸留酒編④〜
ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラから見る世界史
「もし僕らの言葉がウィスキーであったなら、
もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。
僕は黙ってグラスを差し出し、
あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。」
〜村上春樹「もし僕らの言葉がウィスキーであったなら」〜
ずっとラム酒の話をしてきましたが、今回はウィスキー絡みのお話です。
ウィスキーブームもあり飲む方も多いのでは?
そんな私もウィスキー(スコッチウィスキーのマッカラン)がきっかけでお酒にのめり込み、呑んでは呑まれ、10年以上親しんできました。
さて、ウィスキーから見る世界史とはどんな歴史でしょうか?
主役交代
植民地時代およびアメリカ独立戦争の時期はラム酒が最も好んで飲まれた時代でした。
ですが間もなく別の蒸留酒に、その座を明け渡します。
入植者が東海岸から西へ向けて移動する様になると、「ウィスキー」の人気が高まっていきます。
それには理由が3つありました。
1、スコットランド、アイルランド系の入植者が多かった
2、糖蜜の供給が妨げられていた
3、内陸部への輸送はコストが高い
それぞれ見ていきます。
1、この時期に特にアイルランドは主食のジャガイモの大飢饉に見舞われ、餓死する人が急増。その難から逃れるため新大陸へやってきた人が多かったのです。そして彼らは母国で穀物の蒸留酒を造った経験がありました。
2、独立戦争により港は交易出来る状況でなく、船で糖蜜を供給することが困難でした。
3、沿岸部で栽培されるサトウキビ、そこから造るラム酒は海と密接に結びついてました。なので当然、西に向かう程(海から離れる程)輸送に莫大な費用がかかりました。
上記の3点に加え、沿岸部では土壌の塩分濃度が高く穀物が育成しづらいが、内陸になれば簡単に育成できるので、穀物から蒸留酒を造る方が都合よかったのです。
生活に溶け込むウィスキー
1791年にはペンシルバニア州西部だけで、ポットスチル(単式蒸留器)が5000以上もあったそうです。これは当時の人口6人に1つの割合でした。
ここまで浸透していたので、それまでラム酒が担ってきた通貨という役割もウィスキーが引継ぎました。携帯に便利な財産となったのです。
荷馬は一度に穀物を約145リットル運べるところを、蒸留してウィスキーにすれば879リットル運べたのでその差は歴然でした。
ウィスキーは塩、砂糖、鉄、火薬、弾丸など他の生活必需品との交易に使われました。さらに農場労働者に与えられ、冠婚葬祭の場、法的文書に署名する際には必ず飲み、裁判所の陪審員、選挙運動の一環として選挙民にも振る舞われました。聖職者への支払いまでウィスキーでした。
ついに政府の魔の手が、、、
生活のあらゆる場面に溶け込んだウィスキー。
当時、独立戦争で負った莫大な公債を清算する資金調達の手段に、財務長官アレクサンダー・ハミルトンが蒸留酒の生産に連邦税を課すことを決めたのは当然の選択でした。
ひいては人々の飲み過ぎも防げるとも考えたそう。
1791年3月この法が通過し、7月1日から施行されました。
すぐさま、反対の声が上がります。
この方は特別不公平に感じられたのです。
その理由は、販売する時に税を課すのではなく、蒸留器から出す段階で課税されたからです。
これは個人で飲む用にも、あるいは物々交換用のウィスキーにも税金を払わなければならない事を意味していました。
法は施行されましたが、多くの人は税金をは払おうとせず、さらに歳入徴収官を襲い、書類を盗んで破棄したり、徴収官を襲ったりしました。
中でも強く反発したのはペンシルバニア州西部の未開拓の郡の人々でした。反税派の人々は団結し組織的な抵抗を始めます。納税した酒造業者は裏切り者として蒸留器に銃で穴を開けられ、反乱を支持する告知版が掲げられたりしました。
連邦議会はこの税法を修正しますが、鎮静化する気配を見せません。連邦政府の権威が危機に瀕していると判断したハミルトンは、納税を拒んだ者数名に令状を渡すため、連邦保安官をペンシルバニア西部へ派遣しました。
ウィスキー反乱が戦争へ発展か?
事の発端は1794年7月、ひとりの農夫ウィリアム・ミラーに令状が出された際に起きました。
怪我人は出なかったのですが、ミラーの仲間が連邦裁判所の執行官一行に向けて発砲したのでした。
それから2日間小競り合いが続き、反税を唱える武装集団「ウィスキー・ボーイズ」は500人に膨れ上がり、双方に死者が出ました。
野心家の弁護士デビッド・ブラッドフォードがリーダーとなり、地元の人々に声をかけた結果、約6000人が集結します。反乱軍は軍事演習と射撃訓練をし、合衆国から離脱して新たな独立国家を築く事を決めたのです。
危機感を募らせたハミルトンから説得されたジョージ・ワシントンは13,000人の国民軍を召集します。彼らは大砲、軍用行李、そして納税済みのウィスキーを携えて、連邦政府の力を示すために、山々を越えてピッツバーグへと向かったのです。
一方、誕生間もない反乱軍は、この頃には既に崩壊し始めていました。国民軍の到着前にリーダーのブラッドフォードは逃げ出し、反乱軍は消滅したのでした。
そして皮肉な事に「ウィスキー・ボーイズ」が抱える問題の大部分は、自分達を鎮圧するために集められた国民軍の到着で解決を見る。
国民軍の兵士は進軍を終えるとウィスキーを求め、現金を支払いウィスキーを手に入れたのでした。これによりウィスキー税を払う為の資金となったのでした。
結果として反乱軍のうち20名が見せしめに連行されたが、数ヶ月間の投獄の後、特にお咎めなしに終わったのです。
ウィスキー税は数年後に廃止とされました。また反乱を鎮圧する為に軍を派遣した事で10年間で徴収した税金の3割近くの莫大な費用がかかりました。
ウィスキー税法も反乱も失敗に終わりましたが、アメリカ独立後に初めて起きた大規模な抗議行動を鎮圧した事で、政府は連邦法は絶対であり、各州の住民は尊守すべき事を力尽くで示したのです。
そのため、この出来事は合衆国初期の歴史における決定的瞬間の一つと考えられています。
バーボン誕生
反乱の影響は別の酒の誕生を促しましました。
スコットランド・アイルランド系の反乱民はさらに西のケンタッキー州に移動し、ライ麦だけでなく「とうもろこし」からもウィスキーを造り始める。
最初に行ったのが「バーボン」郡の住民だったので、この新種のウィスキーはバーボンと呼ばれる様になりました。在来種の穀物であるとうもろこしを使う事で独特の香りのするウィスキーが生まれたのでした。
まとめ
結局はまた物騒な話に終始してしまいました。ですが独立戦争の後に世界史で習わないこんなエピソードもウィスキーを中心に据えていくと見えて来ましたね。
お酒には税金と、それに抗う人、それにより変わっていく生活スタイル、そしてどんなに場所、環境が変わってもその土地で何かしらお酒を造ってきた、そんな酒好きの先達に敬意を表しながら今日もグラスを傾けます。
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