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『まとめ』歴史を変えた6つの飲み物〜蒸留酒編③〜

ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラから見る世界史

ニューイングランドは、その富の主な源であるラム酒をフランス領の島々の安価な糖蜜で作った。彼らはラム酒で奴隷を買い、メリーランドとカロライナで働かせ、イギリスの商人たちへの負債を支払ったのである。
ウッドロー・ウィルソン(合衆国大統領)

意外と長くなった蒸留酒編
神秘的な蒸留酒の誕生、当初は万能な薬として飲まれ、その後奴隷貿易を支える一因となっていったお酒は、新大陸、後の超大国となるアメリカへ行き着きます。今回はそんなお話。。。

入植者のお気に入りの飲み物

16世紀後半、イギリスは北アメリカにおける植民地作りを開始します。当初、北アメリカ大陸でイギリスが領有権を主張した地域

北緯34度から38度の間に位置する土地で、「ヴァージンクィーン」と呼ばれた女王エリザベス1世に敬意を表して、「バージニア」と名づけられた

の気候は、同じ緯度の地中海沿岸と似ていると考えられていていました。彼らは自分達イギリス人もオリーブや果物などの地中海の産物を生産できる様になり、ヨーロッパ大陸からの輸入を減らすことが出来る、そう期待していました。

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ですが現実は違いました。
地中海の作物や砂糖、絹も作れず、さらに貴金属も鉱物資源も宝石類も見つかりませんでした。
こんな中、数十年間、入植者達は苦労して生計を立てながら、数々の困難に直面。病、食糧不足、内紛、それまで土地を占有していたアメリカ先住民との争いに対処しなければなりませんでした。

この様な苦境の中、彼らにはアルコール飲料の確保は重要な問題でした。自身でアルコールを造れる様な状況ではなかったし、ビアハウスがあるわけでもないし、イギリスからの補給船はビールをいくらか持ってきたが、大半は船員が飲んでしまっていました。他の補給船も来たが、量は希望の量にはほど遠く、航海中にダメになってします品も多かったのです。

彼かは基本的に水しか飲むものがなかったのです。
「イギリス人らしからぬ生活を送っている。全員帰国を夢見ている。勝手にできるなら、すぐにそうしたに違いない。」と報告される程でした。
つまり「水以外の何か」が必要でした。

1628年、ピューリタンの入植者のリーダー、ジョン・ウィンスロップを乗せたアーベラ号の積荷には約1万ガロン、つまり「42トンのビール」も含まれていた、という程ビールが必要とされていました。

過酷な気候はビール造りに使えるヨーロッパの穀物の栽培は難しく、とうもろこしや、トウヒの芽、カエデの樹液、小枝、かぼちゃ、りんごの皮を原料にした独自のビール造りを試みました。
またスペインやポルトガルといった他のヨーロッパの入植者がそうした様にワイン造りも困難でした。ヨーロッパのブドウは(当時は知られていないが)フィロキセラの影響で育たなく、代わりに在来種のブドウでワインを造るがろくなものが出来ませんでした。

結局、バージニアの入植者は交易用にタバコを栽培し、ワインとブランデーと共に、ビール用に大麦麦芽をヨーロッパから輸入する事にしたのでした。

西インド諸島のお酒・ラムの登場

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しかし17世紀後半のラム酒登場により、状況は一変します。
ラム酒はそれまで廃棄物にすぎなかった糖蜜から造れ、遠く海を越えたヨーロッパから輸送する必要がないため、ブランデーよりも遥かに安価でした。

こうしてラム酒は北アメリカの入植者のお気に入りになります。ラム酒は人々の辛い気持ちを和らげ、身体を中から暖めて、厳しい冬の寒さを凌ぐのに役立ったのでした。

契約書の作成、農場の販売、証書への署名、物の売買、訴訟の和解など、様々な場面でラム酒は飲まれました。
なかには「契約を直前で破棄した者は誰であろうとも、その埋め合わせにビール半樽か、ラム酒1ガロン(約4リットル)を提供しなければならない」という習慣もあったそうです。

産業発展の基盤となる

17世紀後半からニューイングランドの商人達は原料の糖蜜を輸入し自ら蒸留を始めました。
彼らのラム酒は、西インド諸島のもの程良くはなかったが、値段はさらに安く、大半の人にとってありがたかったのです。

こうしてニューイングランドの産業において最も収益の高い生産品となったのです。

アメリカ独立を促した香り

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ニューイングランドの酒造業者たちは、地元の人々にラム酒を売るだけではありませんでした。
彼らは奴隷商人という格好の販売相手も見つけたのです。
当時すでにアフリカ西岸にて、奴隷買い入れのための通貨としての地位を確立していたラム酒。

彼らは奴隷商人相手に特別に度数の強いラム酒を造るなど、取引は好況でした。しかしこの状況をイギリスは快く思っていませんでした。

なぜかというとニューイングランドの酒造業者はフランス領の島々から「糖蜜」を買っていたのでした。
背景には当時のフランスはブランデーがあり、ワインも自国で造っていたのでラム酒は他国ほどの需要がなかったのです。またイギリスでは紅茶に入れるために砂糖の需要が高く、イギリス東インド会社の砂糖はフランスに比べると高かったのです。

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その流れで1733年にイギリス政府は「糖蜜法」を成立させました。この法律は海外(要するにフランス)の植民地またはプランテーションから輸入した糖蜜1ガロンに対し6ペンスの関税を徴収する、といった内容でした。つまりニューイングランドの酒造業者にイギリス領の糖蜜を買わせる目的でした。
しかし実際にはこの法律は機能しなかったのです。そもそもイギリス領での糖蜜の生産量が必要量に及ばなかった事、フランスの糖蜜の方が上質だと考えられていた事。これに賄賂なども絡み効果がなかったのです。

この法の制定により、入植者を憤慨させました。結果として密輸が社会的に容認される形にもなりました。イギリスの法全般がアメリカ植民地に及ぼす権威が落ちてしまいました。
この様に糖蜜法を多くの人が公然と無視したことが、アメリカ独立に向けての一歩となったのです。

次なる一歩

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当時のイギリスは政府の財政はヨーロッパで戦争が続き、フランスと覇権を競っていました。次第に負債が増えていき、1764年フレンチ・インディアン戦争ではアメリカ大陸の植民地をフランスから防衛し、北アメリカの支配を確立しました。その後この莫大な戦費の補填をアメリカ植民地に負担させようとしました。

この戦争は基本的にアメリカの入植者のために行ったという論理から、入植者にも負債の支払いを協力させるべきだという結論からです。

そこで1763年に失効になっていた糖蜜法を、さらに強化した「砂糖法」を1764年に制定、施行することになります。

それまでの税率こそ1ガロンに対し6ペンスから3ペンスに下げたが、税金の完全徴収に乗り出しました。それまで関税吏はイギリス国内に留まり、代理人に徴収させていたが、これを禁止。さらに植民地の提督には法の遵守と密輸者の逮捕を要求し、イギリス海軍にはアメリアの領海で関税を徴収する権限を与えました。

当然、この砂糖法はアメリカ植民地で激しい不評を買いました。ニューイングランドの酒造業者は団結しイギリス領からの輸入のボイコット運動を組織し反対しました。
また直接影響を受けない人々も反対にまわったのです。それは「入植者はイギリス議会に代議士を送ることが許されないのに税金だけ払わされるのは不公平だ」、という考えによるものでした。

自由の息子たち

かくして彼らは「代表なくして課税なし」をスローガンにし、入植者を擁護する人々、いわゆる「自由の息子たち/ Son of Liberty」の活動によって、イギリスからの独立に向かって世論が動き始めるのでした。

一方、イギリス政府は砂糖法に続き、
・1765年印紙法
・1767年タウンゼント法
・1773年茶法
と、いずれも入植者を逆撫でする様な法律を次々に制定していきます。

その結果、1773年には有名な「ボストン茶会事件」が起こり、革命の火蓋か切って落とされます。

強烈な革命の香りを伴ったラム酒

ボストン茶会事件に象徴される様に、お茶は革命の始まりに大きく関わっていました。
それと同じくらいラム酒も大きな役割を果たしました。

例えば、
戦争開始前夜、ポール・リビアがイギリス軍の接近についてジョン・ハンコックとサミュエル・アダムスに警告するために、ボストンからレキシントンまで馬を走らせた事は有名ですが、
その際、リビアはメドフォードの市民軍リーダー、アイザック・ホールが経営する酒場に立ち寄り、ラム・トディ(ラムに砂糖と水を混ぜた物に、焼けた火かき棒を入れて温めたもの)を飲んでいます。

またヘンリー・ノックス将軍は1780年、北部の州からの支援物資を求める手紙をジョージ・ワシントンに送り、ラムの重要性をきょうちょうしている。
「牛肉と豚肉、パンと小麦粉と並び、ラム酒は極めて重要であり、欠かす事は出来ない。なんとしてでも、十分な量のラム酒を供給して欲しい。」と書いている。

ラム酒と糖蜜に対する関税はアメリカ植民地のイギリスからの分離のきっかになると共に、ラム酒に強烈な革命の香りを加えたのでした。

1781年、イギリスの降伏とアメリカ合衆国の誕生からずいぶん経ったにち、すでに建国の父の一人となっていたジョン・アダムスが友人に宛てた手紙にこの様な一節がある。
「糖蜜がアメリカの独立に不可欠な要素だったと認めるのを恥じる必要はない。たくさんの大きな出来事が、もっと小さな原因からおきているのだから」

まとめ

今回はラム酒が北アメリカ、特にイギリスの植民地との関わりを見てきました。
元々、厳しい環境だった土地に活力を与えて、次第にイギリスからの独立のきっかけになり、強烈な革命の香りを伴う過程は、ただのお酒に纏わるエピソードとしては驚きがあったのではないでしょうか?

次回で蒸留酒編は最後になります。
アメリカといえば「バーボン」というイメージもある様に、ウィスキーと蒸留酒がアメリカ独立の様な、新たなムーブメントを起こす流れを見ていきますので、次回もぜひご覧下さい!

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ワイン編①
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