【書評】平山優『戦国の忍び』大河視聴者なら必読の一冊
『麒麟がくる』では、歴史に名を残した英雄だけではなく、民の姿も描かれることが重大な要素としてあります。
キャストビジュアルにも登場した、忍びである菊丸もそんな人物の一人。
大河ドラマブランドはどうなるのか? そんな2020年秋。大河はまだまだ意義があると示す何かがあるとすれば、それは視聴率ではありません。
歴史を見る目を、ドラマを始点に育てること。そういう意義があるのであれば、大河は十年後だって生きていける! 大河ドラマとなれば、補うような上質な書籍が刊行されること。これも重要です。
そんなわけで、平山優『戦国の忍び』です。書評ゆえに敬称略でご容赦ください。
我々は忍者について、何を知っているのか?
『麒麟がくる』の菊丸は、重要な問いかけを視聴者に投げかけてきます。
菊丸は忍者らしくない? じゃあそもそも、忍者らしさって何だろう? 忍者の定義は何か?
ここではたと気づくのではありませんか? 幼少期から、日本で育てば忍者を刷り込まれる。漫画、アニメ、ゲーム。老若男女、忍者像はそれぞれあるのだけれども。
知っているようで、実は、何も知らないんじゃない?
そういう問いかけをしてくる菊丸は優秀で、かつ、そんな原点へ引っ張っていく『戦国の忍び』があるのだから、大河はえらい、なくしてはいけないと思えるのです。
この本を読んで、まずは謝りたいことがあります。
伊達政宗さん、ごめんなさい。彼の「黒脛巾組」の話には、疑念の眼差しを向けていました。政宗関連は誇張が多いので、どうせまた、ずんだ餅は政宗発明だとか、義姫暗殺事件だとか、その類の盛った話だと疑っていました。
本書で伊達政宗がどう忍びを使っていたのか、認識が改まりました。
けれども、冷静に振り返ってみれば、東北の戦国大名も情報伝達がスムーズだとは思えていまして。伊達政宗と最上義光は、お互いに「またあいつは嘘を言う」だの「大袈裟だ」と書状で貶しているのです。そういう背後にも、忍びの情報網があったと。
良い人は忍びにはならない
本書はどれだけ興味深いか、ちょっと言い尽くせないほどです。菊丸のモデルである徳川家の忍者について書いてあるのかとか、そういう次元を超越しています。
本書は、『戦国の忍び』なので、様々な大名家の忍者運用をあげています。だからこそ、見えてくるものもある。日本をざっと見ていくからこそ、共通することもあれば、しないこともあるとわかる。
忍びの仕事は汚い仕事。夜動き回り、情報を集め、撹乱を狙う。まともな人がやることじゃないと見下されている、そんな生々しい偏見も、本書にはあります。
「悪いことしていると忍びになっちゃうぞ!」
そう言われていたって。でも、そこまで読んでいると眉間にシワが寄ってきます。これは真面目な戦国本ではよくある現象ですけれども。
そんなこと言うけど、忍び抜きには戦えないでしょ? そういう必要な人員を貶めて、何様のつもりだ、戦国武士ども!
これは断っておきますが、私の大変悪い癖です。地球儀をぐるりと回すように、そういう汚い仕事をやらせておく奴らを差別しているくせに、利用している事例があるのではないか。そう思いつくと、止まらないものがありまして。
ちょうど百年戦争もののお話を読んでいました。この戦争では、イングランド軍が長弓兵を使う。これが滅法強くて、前半戦の原動力となるのです。そういう長弓兵が主役のお話です。彼はoutlawedだと自己紹介します。悪い奴だから、長弓兵なんぞになってフランスくんだりまで行かされると。
で、ヘンリー5世は、フランス軍捕虜の大量処刑を、こういう連中にやらせたんですね。騎士はなまじプライドがあるし、騎士道の基本は捕虜の厚遇です。ゆえに、「お前ら汚い仕事しろよな」と押し付けられると。
弓兵は弓さえあれば、出陣できる。騎士は、馬の飼育や甲冑、従者がいるから金がかかる。結局金か、境遇か。武士道なり、騎士道なりを信奉することで、人は何か失ってしまうのかも。それは共通するんじゃないのか? なまじ、同時期に読んでいた本で、似た存在が出て来たので、斬新な気持ちがありました。
シェイクスピアの描くヘンリー5世は、格好いい。ともか魅力的だけれども。そんな英雄王だけをみていると、見えなくなるものもある。そこに気づかせてくれる本があるというのは、うれしいことなのです。
消えたピースをとりもどせ
『戦国の忍び』に話を戻します。この本は、なまじ全国を広く扱っているだけに、まるでパズルのピースのような感があります。何のピース? 実はこのピースこそ『麒麟がくる』における重要な要素です。
キャストビジュアルには、駒をはじめとして架空の民がいる。オープニングでも、顔がはっきりとは見えない民が、ズラリと並んでいる箇所がある。
『戦国の忍び』を読んでいて思い出すのは、そんな彼らのこと。確かにそこにいたはずなのに、消えてしまったとされる人々のこと。生々しい証言も、声も残っているのに、なまじ断片化しているがために、よくわからくなかった人たちの姿が見えてくる。
忍びとは、戦争があればこそ活躍の場がある。太平の世では消えてしまう。そういう末路も描かれています。仕方ないとは思う。諜報やら放火やら、戦闘技術を持った人々がうろついていたら、それは大変なこと。取り締まられて当然といえば、そうなのだとは思う。
けれども、そういう事情でフェードアウトしていって、さらにそこにフィクションが上書きすることで、日本人の歴史観そのものの一部を、何か壊してしまったのではないかと考えてしまうのです。
2020年代は、そういう消えたピースを取り戻す歴史学の流れが来るのではないか? そういう可能性があって、力強くて、勉強になるだけでなくて、気付きの多い本でした。
『麒麟がくる』は、意図的にそういう消えてしまったものの声を拾う方へ、動いているとも思えます。明智光秀の前半生が不明瞭であることを逆に生かしている。
范仲淹『岳陽楼記』を引用します。
廟堂(びょうどう)の高きに居りては、則ち其の民を憂い、江湖(こうこ)の遠きに処りては、則ち其の君を憂う。
民衆を【江湖】、為政者側を【廟堂】とする。
為政者は、民のことを気にしなければならないし、民衆も為政者のことを気にかけねばならない。片方だけでは世の中は成立しないはずなのです。
本来、両者ともに描き分けることで、立体感のある歴史になるはずだ。けれども、どうにもそれすら通じないのかと『麒麟がくる』の「駒はいらない」という意見を見るたびに、焦りを感じてしまう。
明智光秀や織田信長だけを追いかけたところで、この物語はわからない。歴史は、英雄だけでは成立しない。いっぱいいっぱい、そのことに対する反証は出てくるのです。とはいえ、なかなか、すっきり説明できない。本を進めるにしたって、相手の都合を考慮すると、そう簡単には進められない。まったくもって個人的な感慨で申し訳ないのですが、書評を書く時点で気が滅入ってくるところはある。入手可能か、価格、自分の理解度。絶対に勧めるべきだと読み終えて興奮しても、いざ書く段階になると重たい気分ばかりになってしまうものではあります。
そういう弱音はさておき、ともかくこの本を勧めねばならない。それは、『麒麟がくる』の副読本にふさわしいにもかかわらず、こういう条件があると思えるからなのです。
普通は光秀本に行く。それは、そうなりますよね!
「なんだ『真田丸』関連か」という誤解。いや、『真田丸』ファンにもお勧めできるんですけどね!
いや、私なんぞ勧めなくとも売れるとは思います。それはそうです。下手な勧めかたで申し訳ないのですが、ともかく『麒麟がくる』の根底にあるテーマを解説する一冊としても極めて素晴らしい。値段も分量も手頃で、電子版もある。『麒麟がくる』はじめ、2010年代以降の大河話をするうえでも便利なのです。
「無知の知」を照らす
『麒麟がくる』では、意図的に【江湖】の声を拾おうとしていると思いました。当初は曲直瀬道三と斎藤道三を描く構想であったことからも、意識的にそうしていると思えてきました。
大河ドラマには言いたいことは山ほどある。キリがないので、もうやめておこうと思いますが。日本人の歴史観をガラパゴスにしてしまった点が、何よりもある。書評のはずがなんで大河論に突っ込むのか? もう少しおつきあいください。
『麒麟がくる』の、駒パートを飛ばすという意見は、本当に深刻な問題の象徴だとは思います。
「私のような歴史ファンからすれば、駒なんて魅力でもないオリキャラパートなんて、見る価値がないのですよ」
こういう、自分は歴史に詳しいという認識が基礎としてある意見。これが、とても怖い。
歴史を学ぶというと、教科書を読み、人名を覚え、年号を覚える。そういうところから入るとは思います。でもそれだけでよいのか?
E・H・カー『歴史とは何か』に、とてもよいことが書いてありました。無数の事実から、経過摩擦を経て、【史実】が残ってゆく。そこには願望なり、意図なり、思惑なり、思想なり、どうしたって入る。
どうして描かれていないことがあるのだろう? 見落とされて、省いていいと思えることがあるのだろう?
『麒麟がくる』を見て、「駒は飛ばす」と考えることそのものが、こういう歴史が取捨選択され、経過摩擦を経てゆくことを見るようであるし。
『真田丸』の出浦が忍者らしく装飾されていく過程にも、意図はどうしたって含まれるだろうし。そもそもあれほど人気のある真田幸村が、長い大河で主役になったのが本作が初めてであることに、何か選択の理由がると思うし。『真田太平記』はあれど、大河ではありません。
『おんな城主 直虎』の井伊直虎にせよ。『八重の桜』の新島八重にせよ。大河注目まで、限定的知名度であったことにも、何かの取捨選択はあるだろうし。
大河ドラマの話になると、その人物伝を読みたくなっちゃう。それはそう。それが世の中。それをフックに歴史にもっと深く迫っていけばよいけれども、大河は一年単位だし、出版にせよライターにせよ、来年になれば別のものを追いかけることになる。このシステムにも疑念は大いににあるのですが、話を戻しまして。
そういう、人物伝に引っ張られるのではなくて。歴史上の人物を推し扱いするのではなくて、どうしてその人物にスポットライトが当たって、背景が暗くなるのか? そこに意図があると考えないと、見えてこないこともある。
まず、『麒麟がくる』を見て、『戦国の忍び』を読む。
そうして点と点をつなぐと、見えてくるものがあるかもしれない。
どうしてそもそも、菊丸みたいな奴は忍者じゃないと思ったのだろう? 騙されてしまったのだろう?
当時の認識からすれば、朝倉家にとっての光秀は「忍び」の範疇に入るのでは?
駒や東庵に意味がない? 医者はあれだけ自由に動き回れるのに?
それは伊呂波太夫も。
前半生が曖昧な光秀が主役であること。駒が準主人公のように際立っていること。
その答えを『戦国の忍び』は別に言い切らない。
「この一冊でわかる! 『麒麟がくる』主役選択のワケ」
そういう答えはないんですよ。でも、これを足がかりにして考えていくと、うっすらと見えてくるし、考えることそのものが楽しいし。簡単に答えなんてそもそも出ない。
「ワケ!」
「これでわかる!」
「スッキリ解説」
そういう見出しがフックになって、アクセスも稼げるとは思うけど。そんなに簡単にわかるわけないし、わかったらわかったで、それはとてもつまらないことだと思う。
歴史とは何か? 私たちはどうして歴史を勉強するのだろう?
そういう原点回帰までたどり着ける気がする!
競技の前に、ストレッチをして、筋トレをするような。そういう一冊です。難易度も高くはないし、新書で、電子版もある。こういう本がもっともっと増えて、学ぶことの楽しさを取り戻して、気がつけば歴史観まで鍛えられたら、それは素晴らしいことだと思うのです。
だから、『麒麟がくる』のお勧め本は何かと言われたら、やっぱりこちらを推します。今年だけに特化していないから、来年以降も古びない。何より、歴史観を鍛えてくれるから。
そういう導線を作った『麒麟がくる』は素晴らしいし、そんな歳にこういう本が企画され、出版されたことそのものが、祝着の限りだと思います。
とっちらかってまとまりがなくて申し訳ありません。ともかく、『戦国の忍び』は、よい本です。
考え方がまとまらないうちにツイッターでつぶやいてしまい、いろいろな方に迷惑をおかけしてしまいました。その理 由をずっと考えていて、やっとまとまりました。
歴史におけるテーマを扱うだけではなく、この本を読んでいると、【江湖】が消えてゆく経過摩擦の像が浮かんでくる。そういうことはこの時代と国だけでもない。『麒麟がくる』とあわせると、その像がよりつかみやすくなる。
「無知の知」を掴むにせよ、照明は必要だ。影を作るためには、光がいる。そういう照明装置になる一冊だ!
私はともかくそう思えました。こんなとっちらかったことを書いていてはよろしくない、書評失格だとは思うのですが。この本の奥深さは、そう簡単には語り尽くせない。『麒麟がくる』と組み合わせることで、より深みが出てきます。
そんなわけで、ともかく繰り返しますが、『麒麟がくる』を見るお供に本書を是非ともよしなに! 本書が売れて、近似性テーマの本が出れば出るほど、歴史フィクションが作られれば作られるほど、よいことがあると思えるのです。