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◆”無敵の人”、増加傾向へ・・・

 東京渋谷区で女子中学生(15)に母娘が襲われた殺人未遂事件。自身の母親への殺意が無関係の一般人に試験的に向けられた。

 まさか家庭内の問題がこういう形で被害者を生むことになるとは、普段誰も考えないことだろうと思う。

 人への恨みや憎しみというのは、その大きさと同等かそれ以上の何かへの”期待”であったり”願望”であったりが本人の心の内に潜んでいて、思い通りにいかなかったり、希望が叶うことがなかったりすることで心はその色を全く別のものへと変化させ、自分を暴力的かつ猟奇的な行動へ導くこととなる(のかもしれない)。

 いろんな問題を抱えている現代日本社会というのは、浮き彫りになった問題の数十倍、数百倍もの問題が潜んでいて、ただ見えていないだけの状態。まさに氷山の一角に過ぎないのだと思っていたほうが良いだろう。

 一般的には容易に理解されることのないこうした事件がこの日本で度々起こるようになってきたのは、家庭環境はもちろんのこと、職場環境も含むあらゆる人たちとの関係性を維持することが困難になっていることを表しているような気もする。

 「本当はこんなはずではなかったのに」「社会が悪い」「親が悪い」「どうして自分だけ・・・」など、こういうネガティブな思いというのは、おそらく周囲の人間関係から離れれば離れるほど心の中で密度を濃くしていき、ある時その想いが憎悪や殺意となって事を引き起こしてしまうのかもしれない。

 社会通念として、”罪を犯すこと”それ自体はやってはならないし、罪を犯せば法の裁きを受けることとなるし、それにとどまることのない社会的制裁を浴びることにもなるわけだけれども、そんなことはわかりきった話で、無差別に一般人を傷付ける行為にまで至るということは、最悪極刑でも構わないつもりでいることがほとんど。

 誰がそういう系統の人物を社会に生み出すのかと言われれば、ハッキリと誰かのせいということではなく、異常性を滲ませる発言や行動を起こしている人がそばにいると避けて行動するというのが人として極普通の感覚だろうと考えられるけれども、避ければ避けるほど当人は孤立し、あらぬ行動を起こすまでは時間の問題、というくらいに、いくつかの条件を一つ一つ満たしていることに周囲の誰一人として気付くことがないから起きてしまうのだとも言える。

 自分よりも周りの同級生たちのほうがずっと楽しそうに見えて、幸せそうに見えて、彼氏彼女がいるような人たちを見れば愛されてもいるように見える、そういう感覚に陥ってしまう人というのは一定数存在している。

 一方、自身の幸福度に関して言うと、如何に自分が不幸であるかというのは誰と比較してもどれくらいの幸福度かを知ることは極めて難しい。「Aさんが求めていることを自分も求めているわけではない」と認識していれば、仮にAさんが結婚したとしてもそれを知った独身の自分が不幸であるとは思わないはず。

 でも人間は、幸せそうな人を見れば羨み自分の幸福度の低さに気落ちしたり、不幸そうな人を見れば自分なんてまだマシなほうだと思ったりするくらい、普段から他人に意識を囚われている人ほどどんどん自分で自分を不幸にしていくのである。

 一番精神的に安定させる考え方は、自分が経験しているようなことはどれも多くの人たちが経験していることであって、自分で思っているほど珍しいものではない、という方法。自分は特別な存在であると自分で思い込んでいる人たちは、常に他人の動向や噂が気になって仕方がなくなるのだろう。

 見方を変えると、自分が幸せになるためなら他人を不幸にして踏み台にだってする、と言った考え方を持っている人たちも少なくはないということ。なぜ「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるのかを考えればわかりやすい。他人の不幸というのは自分はまだマシなほうだと思わせてくれるものでしかないからだ。

 漠然と将来に期待することも、漠然と将来に不安を感じることも、人間だからあって当然のことなんだとは思う。でもね、漠然としたものはどれも結果を教えてなどくれないし、ほとんど思っていたのとは違う結果に至る。

 人生を悟ったつもりはないけれども、人生は思い通りになったからといってその人が幸せだったり成功者だったりするわけではないし、思い通りにならない人生だからといって不幸ということでもないと私は考えている。

 人生に幸不幸はその時々でランダムに訪れるものだろうけれども、相対的に五分五分なわけではないし、幸せな出来事は一瞬で、不幸なことは尾を引いて長引く場合がある。

 生きてさえいればきっと良いことがある、という言葉は励ましの意味で使われる場合が多いけれども、私はあまりこの言葉が好きではない。なぜなら、小さい頃から自分の人生にほとんど期待も不安も感じてこなかったからだ。

 どんなことが起きたら幸せで、どんなことがあれば不幸なのか、その仕分けをしようと思ったら世間に目を向けないといけないし、きっと他人と自分をいちいち比較してそのように思い込むくらいのことしかできないのに、他人は自分の幸福度が低ければ低いほど「自分はまだマシなほうだ」と考えるし、高ければ高いほど羨ましいと思われたり嫉妬されたりすることがほとんど。そういうのが面倒だと私は思っている。

 しかも、時代の移り変わりによって人が望む幸福も人が苦悩する不幸も種類が変化していくわけで、例えば現代において言えば、結婚なんかするよりも独身で自由に生活したほうが楽しいと考えている人たちは年々増えているほどだけれども、昭和時代はまるで逆で結婚し、マイホームを建て、マイカーを購入し、子を授かり、温かい家庭を・・・というのが幸福の代名詞のように誰もが信じていた。

 だいぶ混沌とした時代になってしまったけれども、そのこと自体と自分の幸福度とを連動させる必要はなくて、自分で「自分にとっての幸福と不幸」を再定義すればいいだけのこと。他人や世間を基準にしているうちはきっと不幸なまま人生が終わっていく、そう考えていたほうがいいだろう。

 期待せず、不安も感じることなく、ただ今を生きる。幸せアピールに必死になってSNS上でマウントを取りに行っている手作りお弁当画像投稿が日課の子持ちママは、ネット上でアピールしている幸福度と現実の幸福度とのギャップに日々悩んでいることだろうと思う。

 家庭的であろうとすることが悪いのではなく、外に向けて発信する要素としては反感を買うこともされなくなってきていて、見向きもされないものになりつつある。タレントや芸能人の真似事をしても幸福度は一向に上がっていかないのだということに気付いている人たちは、そんなものに興味はない。

 人から「家庭的ですね!」と言われたい想いを持っている人たちもいるのかもしれないけれども、今はもうそういう時代ではない。「幸せになる7つの習慣」みたいなタイトルの本もそう。いくらそんな本を読んでも、そういう本を読む人たちほどいつまで経っても幸せになどなれはしない。なぜなら、自分で考えて、自分で試して、自分で工夫することがそもそも頭にないからだ。

 憧れは理解から最も遠い感情(BLEACH/藍染惣右介の台詞)

 あの人みたいに幸せになりたい、そう憧れるのは自由。でも、同じ経験ができたとしても本当にそれが自分にとっての幸せかどうかはなってみないとわからない部分がほとんどだけれども、実際そうではなかったと思うことになるだろう。

 人と同じ経験をしても感じることも得ることも異なるのが人だからこそ、幸せを真似ようととすること自体がそもそも違うという話。他人と自分を比較したり世間と自分を比較したりしても自分は幸せにはなれないのだとまず認識する必要があるのかもしれない。

 私は、事、現代社会においてはやりたいことも大してないし、何が幸せで何が不幸であるかということも一切考えなくなっている。求めすぎても良いことがないことを知っているからこそ考えない。この世界にはいろんなものがあると思い込めば思い込むほど、手に入れられないことに苦悩するだけだということを知っているからこそ求めない。

 この世界には、実は何もないのだ。私はそう考えている。漠然と期待したり不安に感じたりすることの無意味さを知っているから。

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