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うにゃにゃ

人からどう読まれるかを気にして、ただ書きたいだけのなんでもないことが書き進まない。
自分の書きたい欲求だけに従順になりたい。
内容も結果もどうでもいい。
ただ一時的な欲求でもそれがあることを有り難がって過ごしていたい。

※人の残酷な面について考えて書いています。
せっかくページを開いてもらえて有り難いですが、苦手な方は読み進まないようお願いします。
生きづらさにネットをさ迷ってたどり着いた方は、下のショート動画だけ見てください。


ここ数日、特に理由はなく、動画配信サービスのホームに流れてきたからというだけでシリアルキラー(大量殺人鬼)の紹介解説動画を観ていた。
ただの好奇心の怖いもの見たさである。「世界のいつかのどこかには、現実にこんなことがあるのか」と。
自分が生まれた頃なんかの事件だと、自分が生まれたばかりの赤ん坊の頃に、日本から遠くどこかの国ではこんな凶悪犯罪が起きていたのかなどとも思う。もし、近所で連続殺人など起こったなら、私はもしかしたらという不安と恐怖で動けなくなるくらいの怖がりなので、コロナの緊急事態宣言発令中の時のように、外出する度に疑心暗鬼に襲われて心がすり減っていたことだろう。
動画を見終わってしばらくすると、私は凶悪犯罪者たちの「人を殺したい欲求」にはまったく共感せずに鑑賞してきたことに気づいた。犯人たちがごくありふれた人間としてその時代、その国に生まれて、ごくありふれた人間として感情が動いたり、人として人になんらかの欲求を抱いたりするまでは共感できた。しかし狂信的な思想から神の啓示を聞いたとして人を騙して誘い込み殺して死体をそばにおこうだとか、人を殺したり痛めつけたりすることで快楽を得るだとかの供述にはまったく共感できなかった。人を殺してみたいという好奇心も微塵も湧かない。むしろ気持ち悪い。人が傷ついていたり、苦しそうにしていればそばで苦しみを取り除けないかと、わたわたしては無力な自分に落ち込むような人間だ。創作ですら人が痛めつけられて苦しんでいる様子には心が痛む。私は心が痛むことがつらいので、そう思わされることそのものがこの世からなくなればいいとさえ思っている。

夏は終戦の季節でもあるので、不条理な死について考える機会が多い。戦争は国が合法的に人殺しを良しとすることである。国のために死んで来い、生きて帰ってくるのは恥だとさえすることである。貧しさが犯罪を生むけれど、犯罪をせずに生きている人もただただ苦しいだけの生に溺れるのだろうか。人の強欲さ、傲慢さや、優れた他者を許さない、資源に恵まれた国から奪おうなどの心から、自国のためと大義名分で搾取や殺戮が行われる。権力に逆らえないなんでもない民衆たちが、従っても逆らっても虐げられる惨い世界線だ。

こんなことが過ぎり、現在私の身の回りの生活にはそんなことは起こっていないとは確認しても、そういうことが人の世界には過去、或いはどこかの国内、或いはもっと狭い、教室や家庭内で誰かが死に追いやられるような自体がまるで日常として起こっていることに恐怖する。

シリアルキラーの解説動画について、殺人者の生い立ちから職場での仕事ぶり、家族関係まで、背後を事細かに調べて作られており感心した。家庭環境や時代背景も個人の人格形成に密接に関係しているとは言え、それとは関係なく、犯罪者には歪んだ願望やそれを抑制できず良しとする利己的な部分が必ず垣間見える。正当防衛ですらなく、やらなければ自分が死ぬような脅しをされてということもなく、自らの純粋な欲求からそれを行っているのだ。何度も言うように、これらの行動原理は私は持っておらず、幸いまったく理解できない。こうなれる人もひと握りだ。

私の現実の問題から一時的に避難する意味では、シリアルキラーの紹介解説動画はいい刺激物だったと思う。
私はただのなんでもない人間なので、人間として未熟な部分で後先考えない行動や、ちょっとした好奇心や自暴自棄な行動をして、人に迷惑をかけたり、余計な傷を増やしたりして後悔したり反省したりすることはある。
どれも振り返っても礼儀を尽くして礼と感謝をすれば済むようなことで、直せない部分も至らない部分と何も罪に問われるようなことではない。自分ができなくて一番困るのは、何より私自身だ。

生きていると、人の生きる時代も生活水準も常識も自分の望む方とは関係なく変わっていき、自分の健康状態も変動し、与えれる情報も通れる道も変わる。
私にとっての大切なものが時代錯誤で役に立たないものになっていったり、人によっては自分には恵まれなかったものとして羨まれたり嫉妬されたりすることもある。

私は常に人生に困っていて、常に人生に有難みも感じていて、だからこそ感じること、思うことがたくさんあって、無視することが難しい。
自分の外のことには驚くことが多く、それに刺激や影響を受けて、自分の意向とは別の方向に流されてしまう自分にも戸惑う。慣れないことには反応が鈍く、次こそはこのようにできたらとまた理想を抱き直したりする。その理想も、微々たるもので、私が叶えられて喜ぶことは、人からすればなんでもないことだ。
そのことは孤独にほかならないけれど、私がなにを思いどう行おうとも孤独ならば、表面的に見える人の苦悩も快楽も孤独の中の産物なんだ。

よくわからない締めになった。

内面がどんな風に散らかっているかはともかく、私はいつもできることをしていて、できた時にはなんらかの痕跡は残る。
前にも言ったかもしれない。バタフライエフェクトのようなちいさな動きがどこかでたまたま良い奇跡を生んでいるかもしれないことを祈っている。なんでもない人々のなんでもない人生が社会を形作っていて、私のそのご多分に漏れず大切な人生だと思っている。

私が人や、人ではないたまたま居合わせた存在に深く感動し感謝する時、それらの存在は私を感動させるために存在しているわけではないことに感謝する。
私が感謝されるような時にもそうだろうから。


2023年7月17日 処理(今日は弟の誕生日です)


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