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ストロー

 4月を待たずして、桜は散ってしまいそうだ。
 公園の花見スペースにはいくつもブルーシートが敷いてあり、肩を寄せ合って春風の匂いを楽しむ男女もいれば、頭上の景色そっちのけで酒盛りに興じる中年男性グループもいる。
 皆、仄かに頬が赤く、目尻が蕩けていて幸せそうだ。
 ブルーシートの端に桜の花弁が舞い落ちる。頭上にある真っ青な空に旅客機が一機飛んでいるように花弁は目立ち、三人家族の娘が拾おうと手を伸ばした。すると風が吹き、隣のブルーシートへ転がっていってしまうので、娘は青年の背中にぶつかった。
 隣りにいたのは大学生の男女5人組で、慌てて両親は彼らに謝った。彼らも何故か謝り返している。
 娘は桜の花弁を見ていたので、彼は桜の花弁を拾って手渡す。互いに頭を下げ合う中、娘がぶつかってきた理由に気づいたのは彼だけだった。そんな彼を彼女は見上げていた。

 彼は一度社会に出てから再度入学したため、まだ大学一年生だが、もう30過ぎだ。周りの学生たちは年齢の開きに驚いたが、彼の腰の低さと温厚さはすぐに壁を取り払った。今、彼は山岳サークルに属していて、一向に山へ登る気配がない日々を楽しんでいる。夏に高尾山のビアガーデンに行く予定だけは立っているらしい。
 若葉が所々に混じりつつある桜の木の下、集まった5人が手に持つのは大抵、発泡酒で、そんな中、彼が持つエナジードリンクのストローが揺れる。下戸な彼に対して仲間たちは無理しないでいいと言ったが、せっかくの花見だから‘’らしいことがしたい‘’といって、彼が考え出した折衷案が、エナジードリンクにストローだった。
 仲間たちは折衷案になってない彼の考えを可愛らしく思いながら笑った。

 彼の持つエナジードリンクの隣で重なったのは、彼女が持つ梅酒だ。アルコールは3%にも満たなく、早生まれの彼女は先月20歳になったばかりで、まだビールの苦さに舌が馴染まない。
 上京前の彼女の学生生活は女子バスケ部の活動ばかりで、アイロンで前髪を整えて買ったばかりのワンピースを着る休日はなかった。髪を切るにしても美容院ではなく、母親の知り合いの理容室で、彼女の頭の中にあるのはどうすればもっと相手の死角に入ってパスをもらいシュートを打てるかばかりで、もちろんバイトもしたことがない。
 そんな彼女が夏を終えて部活を引退した。
 県大会ベスト8。
 彼女は泣いて泣いて、結果を受け入れた。
 部活が終わると彼女は自分が何をしたいのかがわからなくなった。だが、そんな彼女の憂いは時を止めたりはしない。彼女は焦りを背中に感じながら勉強に身を費やした。
 地味な基礎練習にもひたむきに取り組み培われた胆力はそこでいかんなく発揮され、彼女の成績は上がり、想定していた大学よりも上の大学も圏内に入った。
 彼女はスリーポイントシュートを打つような気持ちで大学を受験し、合格した。
 独り暮らし、新しい学友、地元のショッピングセンターみたいなキャンパス。テレビで見たカフェが二駅先にあり、初めてのバイトはその隣で募集していたチェーンの居酒屋だ。今も彼女はそこで週に3回アルバイトをしている。
 そして彼女は今、好きな人がいた。好きな人は隣にいた。

「ぼく、ちょっとトイレに行ってきます」

「あぁっ、じゃあわたしも」

 じゃあ俺もと立ち上がろうとした男のパーカーの裾を女が引く。目が合って女は首を横に振り、なにかを察したかのように男が座り直す。後を追う彼女のスニーカーの踵は端だけ中に折れ曲がっていた。

 彼は先に用を済ませたが、個室に入るだけ入って出てくる彼女を待っていた。
 二人は桜の並木道を歩く。
 花弁達は風に吹かれながら空中遊泳を楽しんでいる。自販機横のベンチがちょうど空いていて二人はそこへ腰を下ろした。

「ないよ。君と僕はきっとそういう関係にはならない」
 擦り合わせている指先を見つめながら彼は呟く。
 彼女は俯く彼の横顔を見ている。

「『きっと』なんですね」

 どんな顔をさせてしまったのだろうかと思い、彼が振り向く。
 飛び込むように—――彼女は唇を重ねる。
 彼女は必死で大人になろうと努めた。唇の隙間からやけに尖った赤いストローが差し込まれ、咄嗟に少しだけ絡まった。 

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