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「地雷系」女子の思想について考えてみた

まえがき
※この文は特定の人達を差別したり批判する目的で書いたものでは無い事をご了承ください。


近年、「地雷系」と呼ばれるジャンルで呼ばれる若い女子達が観測されるようになった。
しかし、時代は違えど、「昔のアレは今でいう地雷系だな…」と思うようなタイプの女子、及び彼女達の持っている美学は形を変えて存在していたと思う。


そもそも「地雷系」とは、私の定義だが、深く付き合ったら「地雷」と化し、「メンヘラ」化して極度な依存や自傷行為など迷惑な方法で他人の情を繋ぎ止めたり、ホストクラブや「推し」等に貢いだり、SNSで承認欲求を過剰に満たそうとする、見た目は黒を基調としたギャル系の服を着た、昔で言う「バンギャル」に近いような服装を好む女子たちである。


内面的にも「バンギャル」と近い所はある。まず服装や内面に、何かしらの美学を持ってるように思われるところ。
ホストやバンドマンなど人気商売で生きている異性に依存している所。


その中でも彼女達の美学について考えたとき、世代問わず「地雷系」とカテゴライズされるであろう若者達全般を通して、共通点があると感じた。
それは退廃的な美学を持っている事だ。


まず、残酷な大前提を言うと、若くて美しい女は中身が「地雷」であろうが、金銭が発生する、しないを問わず確実に一定の需要がある。その需要の大小は、残酷なほどに明白なものだ。
有名人にVIPルームでのパーティに誘われている若い女の隣で、一般人の男に「今からご飯奢って」とタカられているその女の友達がいる。それは第一印象、つまり見た目で差別されている。


しかし「適齢期を過ぎた」女性の価値は、その価値観そのまま生きていくとすると、急に激しく暴落する事になる。
その短絡的な認知から来る根源的恐怖から逃れるため、私もJKの頃は「30代とかBBAやん」となんの躊躇いもなく言い切っていた。


ともかく、人間の寿命が平均80歳を超える日本で、「若くて美しいから価値がある」と一度自分に条件付けしてしまうと、長生きする理由がそもそも感じられなくなる。

メンヘラと呼ばれるような人たちが、「若くて綺麗なうちに死にたい」というような事を言っていたのを何回か聞いた事がある。
つまり適齢期を過ぎ、見た目以外の事で自我を主張出来ない自分はまず無様だし、生きる価値を自分に対して見い出せなくなるのだろう。元々慢性的な空虚感があれば仕方ない発言だとも思う。


しかし自分の実質的寿命を1/4〜1/3にしてしまうなんて、なんて退廃的な思想なんだ、と私は思う。


歌舞伎町で、とあるホストを刺してニュースになった「地雷系」女子、「T」の写真が出回って話題になった事がある。彼女は刺して血まみれになり倒れていたホストの隣で平然とタバコを吸っていたという。
以下が、犯行直前に彼女が携帯にメモした内容である。

〈お母さん、お父さん、○○ちゃん、××さん、□□くん(※被害者の先輩ホストの名前)ごめんなさい。私に関わった皆さますべてにごめんなさい。昔からずっと虚言癖がひどくて、虚言癖のあった私は、悲劇のヒロインになりたくて、美しくてはかないものになりたくて 何があって何がなかったことなのかわからない。親不孝でごめんなさい。バカな娘でごめんなさい。虚言癖で嘘か本当かわからなくなって、大好きな人ができて、どうしたら私以外を見なくなるのか、殺せばいいと思いました。何もない私に(聞き取れず)もう何もわからない。琉月くんと呼ぶのはなんだかお金って感じがしてイヤです。(被害者の本名)くんを愛してる。心の底からどうしようもないほど愛しているけど、お金としか見てくれなくても(中略)君は私に嘘の言葉しかくれなかった。僕はホストだからって。(中略)けれど死ねばそれが本当になる。だから今は大事にしたい。一緒にいられるなら何でもするから安心してね〉

https://www.news-postseven.com/archives/20191205_1501710.html?DETAIL

この中で赤線を引くとしたら、「昔からずっと」、「悲劇のヒロインになりたくて、美しくて儚いものになりたくて」の部分である。(「自分が虚言癖なのに相手の嘘が許せない」ところにも違和感を感じるが、今回触れないでおく)


退廃的な人間の人生には、きっと生きるお手本となる他者が殆ど「昔からずっと」存在しなかったのだと思う。「儚い」という表現は「人はいつか死ぬ」事への単なる気づきである。メメント・モリ。


つまり別に、儚い人間であろうとしなくても、そもそも人間の命は儚いものなのだが、殊更それを強調する意味はなんだろうか?
それは人生をさらに色濃く、ドラマティックに演出、脚色するためだ。「死」というのはどんなドラマでも必ずと言っていいほど扱われる最もメジャーな題材だ。


「悲劇のヒロイン」と言っているように、何か舞台を設定して、その上で彼女は、芸をしなくてはいけない感覚に陥っているのではないか?何故なら、一般的な生き方が「昔からずっと」分からないから。


その感覚を昇華させる舞台が、彼女には相応しくなく、実際の罪を犯す羽目になってしまったように思える。宗教に入信して、巧みな嘘を吐き、信者を勧誘する人間と本質的に似ている。


人は、基本的には、何かを指示されてその通りに生きるのが一番楽だと思う。が、彼女は彼女の持つ性質に対して、よいフィードバック(教育)を受けて来られなかったのかなと私は推察した。


つまり残酷な呼び方をすれば、「放棄された子供」だったのかもしれない。しかし誰にでも自尊心はあるので、「人として認められるため」に自分で悲劇という舞台を作り、自分で芸を行わざるを得なかったのではないか。倫理観を無視して発言するならば、ある種のクリエイティブな性質を感じる。


地雷系女子皆がTのような思想を持っているとは言っていない。が、傾向として、退廃的なもの、概念、生き方を「美しい」と捉える傾向が強いように思う。


退廃的なものに魅力を感じる人というのは、死や性など人間の根源的な部分に強く惹かれる人だと思っているし、美についても永遠でないことを理解し、それらの本質に魅力を感じるタイプの人々なんだと思う。さらに、尊厳を実際に脅かされたり侵害されるような危険な場所をサバイブしてきた人であるとも思う。そういった優れた感性や濃い経験は、実は貴重な財産や資本であり、後の人生を生きるための素材として出来たら活用したいものでもある。


つまり彼女たちは、悲劇しか書けない劇作家から、喜劇や色んな切り口で物語が書ける劇作家になれたら、きっと更に羽化できるのだと思う。それがセンスを磨き、才能をモノにするという事ではないか。


本当は、不幸体験は自分が幸せになるための、キリスト教で言うところの「神の試練」のようなものだと思う。(私はキリスト教徒ではないが)
素材をどう扱うかは、感受性の高い各々の劇作家に任されている。
それを悲劇の自分史のように語り続けている人は、私の世代にもいて、携帯小説は不幸自慢のオンパレードだったのを覚えている。
彼女達も「地雷系」の一種だと私は思っている。


とにかく、舞台は大人になれば選べるし、「昔からずっとこうだった」なんて事も変えることが出来るんだよ。
アドラーも「現在が過去を規定する」と言っていたし、今が幸せなら過去は関係ない。
どうせなら、火サスみたいにバンバン「死」を題材にするチープな物語じゃなく、もっとハイコンセプトな物語を作る劇作家になろう、って事です。
厳密に言えばそのような死への気づきを呑み込んだ、いわゆる清濁併せ呑んだ人として生きてみると、生きづらい人が今より生きやすくなるのかな、なんて思っている。


これは私の一意見で、全く参考にならないどころか余計なお世話かもしれないし、ただの綺麗事かもしれないけれど、私もその昔退廃美を崇拝していた人間だったので、繰り返されている歴史を見て、個人的に感じる所があったので勝手に熱く語ってしまった。本当に見当外れだな、と思う方もいると思うので、そういう方はスルーしてね。


地雷系女子たちが羽化した時にどんな人間になるのか、とても興味深いなと思っている。


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