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言葉を考える⑩「わかりみ」だと届かないところ

 言葉は日々新しくなる、というよりは、これまで空き地だった場所にビルが建ち始め、それが毎日のように通る場所でも、その工事の途中では見えているのに見えていなくて、完成してから、いつのまにここにあったのだろう、と思う感じと似ていて、本当は定着するまでに時間がかかるものだと思う。

 だから、たとえを続けてみれば、新しくできた言葉も、建設途中で放棄されて、いつのまにか風化していく建物のように、一時期の流行語は、生まれて、使われて、消えていき、「死語」と言われるようになっていくのではないだろうか。

「わかりみ」が深い

 ここ何年かで、「わかりみが深い」といった表現を目にすることが多くなった。誰かが発する言葉として聞こえてくるというよりは、文字として知るようになったけれど、いつから、どうして「わかりみ」という表現が広まったかについては、よくわからないままだった。

 だけど、自分のような「新しいこと」にそれほど詳しくない人間ではなく、ありがたいことに、もっと「新しいこと」に詳しい人によって、すでに、こうして、かなり納得がいく文章が書かれている。

 2016年頃から 使われ始めて一気に広がりました。 一番最初は「バブみ」という言葉が 発祥だったようですね。
 基本的に使われる場所はツイッターです。
 ツイッターというのは FacebookやInstagramに比べれば 愚痴とか悪口を言い合う場所になっています。
 愚痴とか悪口とか、他者の批判をするっていうふうになると、自分の優秀性を示さなければいけません。
 「自分は頭がいいんだぞ」、とかちょっとクールな文体とか賢さをアピールしないといけませんよね。
 そういう賢さをアピールするためには「自分自身の主観」をできるだけ取り除いて「俺の言ってることは客観的なんだぞ~、普遍的に当てはまるんだぞ~」というニュアンスをこめなければいけません。
 そういう意味で、わかりみが深いと若干自分自身から距離をおいた表現のほうが、なんとなく客観的な分析をしているニュアンスがあるのだと思います。

東大話法

 人類が「知性」で生き残っていたのはおそらく長い歴史的にも事実だから、「頭のよさ」が大事だし、どこか「かっこよく」見えてしまうのは自然なことだとも感じる。

 その一方で、あまりにも「客観性」ばかりが重視されてしまう傾向は続いているし、少しでも考えたら、本当の無色透明で中立の「客観性」などはあり得ないのも分かるはずだと思う。

 それでも「客観的」への信仰に近い流れは続いている印象があり、その流れの中の一つが、「東大話法」ではないだろうか。

「東大話法」とは、この書籍のタイトルにあるように「傍観者の論理・欺瞞の言語」でもあるのは、この本を読むと分かるのだけど、こうして東大教授でもある安富歩氏が言語化し、指摘しなかったら、今も「東大話法」は、よく分からないけれど、「正しい理屈」だと疑われなかったかもしれない。

 ほんの一例に過ぎないのだけど、「東大話法」の文章の始まりのほとんどは「我が国」という主語らしく、それは、「客観性」の擬態としては、かなりの完成度だと思うし、実はかなり長い期間、これが「知的」であると思わされてしまっていたのかもしれない、と改めて気付く怖さもある。

 特に、怖さがあるのは、こうした「東大話法」で成り立っているシステムの特徴が、このようなものであると指摘している部分だと思った。

 底知れない不誠実さ 
 抜群のバランス感覚。
 高速事務処理能力。 この3つで悪辣なシステムが維持されている。

 この中の不誠実さというのは、もしかすると、約束を守るとか、筋を通すということを、ある意味では「合理性」がない、という判断をしてしまっているから、結果として「不誠実」になっていないだろうか、と疑っている。

 下手をすれば「誠実は、効率が悪く頭が悪い」ことで「不誠実であっても、早く結果を出したほうがいい」が、主流になっている場所がありそうで、「不誠実は、よくないこと」という価値観を、もしかしたら共有できない人たちが一定数いるような気がするのが、ちょっとこわい。それは「客観性」を信仰しすぎることによって到達する一つの「境地」のような気はしている。

「わかりみ」を使う人の気持ち

 この記事の中でも触れたのだけど、いい意味での心の動きであっても、心が動く間は無防備になってしまうから、今のように油断ができない社会だと、そうした心が動くことが避けられがちなのは、仕方がないのかもしれないと思う。

 そう考えると、「わかりみが深い」のほうが「よくわかった」よりも、同じ内容を理解するだけであれば、冷静さを保つことができそうだし、「深い理解」というのは、場合によっては、自分を変えてしまうような危険性も伴うこともあるのだから「わかりみ」で「深い」や「浅い」を調整できるようにしておけば、そこまで侵入されることも、揺さぶられることも防ぎやすくなる。

 それだけ、今の人たちは忙しく、ストレスも多く、それに加えてコロナ禍という先の見えない不安もあって、基本的に気持ちの余裕がなくなってきていて、だから、「感動する」や「わかった!」というような心の動きをするにも、エネルギーは使うので、それを避けるためにも「わかりみ」はまだ使われ続ける可能性もある。

ヘウレーカ!

「ヘウレーカ」とは“わかった”“発見した”という意味で古代ギリシャの科学者、アルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見したときに、嬉しさのあまり裸で「ヘウレーカ!」(古代語の εuρηκα)と叫びながら街中を走った、という故事にちなんでいます。

 この番組はたまに見ている。内面的には「火花」を書く小説家でもあるのだから、冷静一方なわけでもないのだけど、テレビ出演時には「ヘウレーカ!」からは遠そうに見える芸人の又吉直樹氏が、いろいろな専門家に、知らないことを知りにいく、という番組なのだけど、改めて、考えたいのは、この「ヘウレーカ」に至るまでのアルキメデスの過程だ。

 「アルキメデスの原理」が「わかった!」から、それが入浴中だったから、そのまま裸で街を走り回るほど、アルキメデスは興奮していた、という「伝説」として伝えられている。それは「アルキメデスの原理」は液体に関係しているようだから、入浴中にひらめくのも、どこか筋は通っているようにも思う。

「わかりみ」では届かないところ

 この話を最初に聞いた時に、それでも裸で走るなんて、というような微妙な疑問は持ったままだったけれど、それは「わかった!」ということを、それこそ「わかっていなかった」せいだと思うようにもなった。

 この場合の「わかった!」は、日常的なことではないように思う。これは、忘れていたことを思い出したのでも、自分がトラブルに遭遇してそこを突破するための方法が「わかった」わけでもない。

 思い出すことや、トラブルの解決は、「外側」から取り入れたり、既に存在する「情報」や「知識」の組み合わせであることが多いと思う。

 そうしたことの検討には「わかりみが深い」といった「理解」のしかたは、有効のようにも思うし、感情的なことと切り離した方が思考が速くなる可能性すらあるような気がする。

 だけど、アルキメデスのように、まだ人類が気がついていないようなこと。どこにも正解が存在しない出来事。そんなところにまで届くためには「ヘウレーカ!」という、外からのものと、自分の中の何かとが混ざり合い、化学反応のように、内側から突然爆発的にわきあがる「わかった!」でないと、届かないように思う。

 だから、これは、本当に余計なことでバカな心配だと思うのだけど、優秀な人間が「わかりみ」を便利に使うのを見ていると、「わかった!」という、内側からの爆発的な力も使うような、「未知の領域」まで届かせる思考方法を、いつのまにか忘れてしまわないだろうか、と思う。

 それは、人類のためには、マイナスなのではないだろうか。

 それでも、結論としては、「わかりみ」は便利な時もあるけれど、「わかった!」の爆発力も忘れないでほしい、というような、微妙に分かりにくい心配にすぎないかもしれない、とも思った。



(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただければ、うれしく思います)。


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