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「似合う」とか、「似合わない」は、改めて考えると、けっこう難しい気がする。

 男性がいろいろな服を着て、客観的には、どの格好も似合わないのだけど、その人物が好きな女性にとっては、どれも素敵に見えるという、古典的な場面を久々に見た。

 それは、好きなあなたはどんな格好をしても好き。というような、特に男性に対するファンタジーでもあるのだけど、ただ、「似合う」や「似合わない」は、客観的な基準というよりは、もっと主観的なものに関わっている、ということを改めて感じさせてくれた。


 そして、「似合う」っていうのは、何だろうと考えると、人の好意があてにできない場合が多いのだから、それに頼らずに「似合う」を実現させるには、やはり、センスのようなものが必要ではないだろうか。

 そんなことを思うと、「似合う」や「似合わない」を語る資格が、自分にはないのだと、ちょっと遠慮した気持ちにもなる。

スタイリストの見方

 「似合う」や「似合わない」を考えた時に、最初に、服のことが頭に浮かび、自分では考えを深められなさそうだと思ったら、スタイリストのプロの方が、きちんと考えてくれていた。

 とてもありがたい。

 この記事が伝えてくれていることは、スタイルやセンスというよりは、どちらかといえば、「心の姿勢」のようなものだった。意外と思いつつも、どこか納得感もあったし、それならば、自分も、自分なりに「似合う」が見つけられるかもしれない、と思った。

好奇心が旺盛で、新しいものを楽しめること。これは必須条件です。

 ただ、これは服のことなので、心の姿勢にプラスして、チャレンジの数を増やすことで、「似合うこと」を見つけていく、ということだとも思った。

 それは、もちろん、ただ部屋の中にいて、じっとしているだけだと難しいかもしれないけれど、考えたら、家にいて、今、自分が持っている服をもう一度見直して、今までに試みたことのない組み合わせで着て、鏡で確かめたり、家族に尋ねたり、といった中でも、それは可能かもしれない。

 そんなにすぐにわかるわけもないし、どこまで理解したどうかについては自信もないが、どうやら、服に関しては、「似合うは、作れる」らしいことが分かった。


「似合う」髪型

 髪型も「似合う」や「似合わない」が、よく言われるジャンルだと思う。

 この記事↑は、女性に対しての「分析」なのだけど、ほとんど科学的にデザインするような方法論に感じる。それは、専門家として、顔の形とパーツの特徴によって、その場合の「顔」がどれだけ魅力が上がるかどうか。という「統計」のようなアプローチなのだと思う。つまりは、試行錯誤の成果、なのかもしれない。

(男性の場合↑も、科学的、もしくは統計的な成果によるデザイン、といった印象になる)。

あこがれの「髪型」の「似合わなさ」

 髪型は、ほとんどの場合、プロの手に委ねるしかなく、どういう髪型にするかは、リクエストするしかない。

 その場合、昔からよく聞かれたのが、ある特定の人(女優や、スターや、有名人)の髪型にしてください、という依頼についてで、その願望は、自分に似合うかどうかは、考えていない、という、カットする側の、苦情のような言葉だった。

 今は、これだけ、こうした「苦情」のような言葉は繰り返し言われているのだから、もう「この髪型にしてください」は、少しは減っているかもしれない、とも思うのだけど、ただ、「あの人のようになりたい。せめて、髪型だけでも」というような思いは、尊重されるべき気持ちのようにも思う。

 だけど、もし、似合わない場合は、そのがっかり具合がひどくなるのか。それとも髪型だけでも「あこがれに近づけた」と満足するのだろうか。主観的なことだから、鏡の中の自分は、すでに、その髪型が「似合って」見えるのだろうか。


 それは、似合うとか、似合わない、という、科学やデザインや統計とは、質の違う話だと思う。

 かなり昔、吉川晃司や、玉置浩二の属する安全地帯が、若くて人気があった頃、デザインパーマという言葉が流行り、それで美容室に出かけた若い男性が、吉川晃司ではなく、おばさんのようになって帰ってくる、という光景が、おそらくは全国各地で見られたと思う。

 ただ、その、当時は「笑い話」のように語られていたことも、もしかしたら、無難な「似合う」ではなく、これまでの自分とは違う、レベルの高い「似合う」を目指した結果なのかもしれない。もしくは、その試行錯誤で、自分の「似合う」が変わっていくような、実は「成長」に近い行為なのかもしれないとも、今は思う。

変えられない髪型

 かなり例外的な話なのは分かっているが、私は、自分の髪は自分で切り続けている。そうなると、髪型を変えるのは難しい。

 軽い天然パーマだから、カットして、多少の失敗をしても、そんなにおかしくならない。

 最近さらに気が楽なのは、ツーブロック的な髪型は別としても、全体的には、髪先をきっちりと揃える感じが少ないので、より失敗が気になりにくくなっている。

 どちらにしても、ずっと同じような髪型だと思う。

 だから、自分でカットしている限り、髪型を変えるのは難しく、意識しているのは、なるべく無難というか、相手に意識させない感じにすることだから、それは、「似合う」を目指しているのだけど、もっと高いレベルのチャレンジした上での「似合う」ではないのは、分かっているつもりはある。

 だから、美容院に行って、今までしたことがない髪型をして、違う自分になろうとする気持ちは、理解できていないと、思う。

「似合う」は変わる

 ツーブロックを見た時に、昔の七三分けのようだ、という印象を持つ人も、ある年齢以上の人には多かったと思う。

 私にも既視感があった。

 だけど、当たり前だけど、現代のツーブロックと、昔の七三分けは、少しでも注意深く見れば、かなり違うはずだし、実際にカットをしているプロからは、明らかに違う髪型なのだろう、とは思う。

 同じように、ファッションも、昔の流行が繰り返すようで、でも、以前の服のデザインとは、違っている。昔のままだと、今着ると「似合わなく」なっている。

 それは、時代によって、「似合う」は変わっている、ということなのだろう。

 それに、同じ人間でも、年齢を重ねたら、ずっと同じ髪型をしていると、「似合わなくなる」はずだ。(これは、服でも同様だと思う)。

 そのあたりは、自分の髪を、自分でカットするたびに、今の年齢を考えて、おかしくないだろうか。今の時代では違和感がないだろうか。そんなことは意識する。

 そして、髪型をよく変える人のことを想像する。

 冒頭の、服が「似合う」人の条件として、好奇心といった要素があがっていたから、もしかしたら、髪型をよく変える人というのは、「似合う」を増やしているのかもしれない。

「お似合い」と「釣り合い」

「似合う」や「似合わない」は、人間同士にも使われることがある。

 それは、カップルに対して、「お似合いのカップル」と、決まった構文のように使われる。そして、ちょっと不思議なことに、その逆に対して「似合わないカップル」とは、あまり言わない。

 「釣り合わないカップル」。もう少し丁寧に言えば「あの人は、あなたにふさわしくない」とか、「あの人に、あなたはもったいない」といった表現になる。

 考えたら「お似合い」という言葉は、カップルに対してか、もしくは洋服の販売員が「お似合いです」と言う場面以外に聞いた記憶がないから、かなり限定された使い方をする言葉なのだと思う。

 カップルが「お似合い」という場合は、二人でいる姿に対して、「調和が取れている」もしくは「釣り合いが取れている」という状態を表す言葉だと考えられる。

 ただ、そこで「釣り合いが取れている」という表現は、正確かもしれないけれど、無粋だから、その「釣り合いの良さ」への祝福も込めて(時には皮肉もいれて)、「お似合い」という表現を選択するのだと思う。

 もう少し踏み込めば、「釣り合い」は、別々に存在していることに対して使われる言葉なのだけど、「お似合い」は、もっと一体化した存在になっていることを表しているような気がする。(だから、試着室から出てきたお客に対しても使われるのかもしれない)。

「似合う」や「似合わない」が使われる場面

 元々、人と人との関係性においては、「似合う」や「似合わない」を使わないのは、当然だと、少し考えれば、気がつく。

 人間にとって服や髪型は、主体は自分で、服や髪型は、その主体を引き立たせるものであって、だから、そのバランスが悪いと、「似合わなく」なる。

 どちらかが主体の場合は「似合う」や「似合わない」は自然に使えると思うけれど、どちらもが人間の場合は、少なくとも現代では、どちらかが圧倒的に「主体」であることは考えにくいから、「釣り合い」というバランスに関する言葉を使うのだと思う。

 ただ、「お似合い」カップルには、「釣り合いの取れたカップル」という意味合いも、当然、含まれているように思う。ただ、いつまでも「釣り合いが取れた状態」は、距離がありすぎるから、そこから「お似合い」という、もっと距離が近づづいた、(幻想込みだけど)一体化している表現に進むのかもしれない。


 (お見合いに使う「釣書」という言葉には、釣る、という怖さがあると思っていたが、この場合の「釣」は、能動的というよりは、釣られた場合の「釣り合い」という受動的な「釣り」なのかもしれない)。


「似合う」という関係性は変化する

 最初は「釣り合い」が取れていないように見えるカップルでも、長い年月を過ごすうちに、「お似合い」に変わっていくことは少なくない。

 そんなに単純なことではないかもしれないが、一緒にいる時間の長さによって、影響し合うことで、お互いに深いところで似てくることもあるかもしれないし、同じ試練や逆境なりを、協力して乗り越えることができたら、その混沌とした時間の中で、より気持ちが近づくこともあるはずだ。

 
 「お似合い」になっていくカップルは、お互いに影響を受けることを許容している、というオープンな関係でもあるだろうし、もしかしたら、服が「似合う」条件として、スタイリストが、好奇心という心の動きをあげているのも、気持ちが開かれているかどうか、を指しているのかもしれない。

 「似合う」力、というのは、自分が変化するのを受け入れることでもあるようだ。

 「似合う」や「似合わない」は、実は、関係性を表す言葉だと、改めて思った。だから、「似合う」や「似合わない」を気にするほうが、健全なのかもしれないし、新しい「似合う」に対して、拒絶感が強くなりすぎると、それが老いることに、直線的につながっているような気もする。




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